Source: Nikkei Online, 2023年10月4日 2:00
いま再評価の進む落合朗風は、藤田嗣治から夭折(ようせつ)を惜しまれた「恐ろしい将来を持つ」日本画家だった。1919年に「エバ」で衝撃的な再興日本美術院デビューを飾る。主に京都の画塾に所属し、官展に断続的に入選して活動するが、異才を発揮すべく川端龍子の青龍社、そして自ら明朗美術連盟を立ち上げて作品を世に問うた。
本作は官展出品を意識した控えめな作風だ。住まいに近い洛外西方のおそらく梅ヶ畑を描き、秋晴に凧(たこ)揚げして遊ぶ子供の横で脱穀作業をする田園風物は、朗風が関心を寄せた題材である。実をつけた柿や弁柄の家屋の赤色が画面中央に集められ、視線を誘導して奥行を出す。モチーフや色彩を積み上げるように繰り返し、葉や実の同形態が奏でるリズムが牧歌的な印象を与える。
図案のセンスにも優れた朗風は、線や色の造形性や構成要素を前面に押し出す一方、温かみをもって現実社会を描ける情深い人柄だった。その作風は日本画の定義を喧(かまびす)しく論じる同時代の批評など煩わしいかのように、油彩画家とも交流し、前衛的な創作を行おうとする緊張感にあふれている。
(1926年、紙本著色、額装、186.0×64.0センチ、足立美術館蔵)