日本最強の通信網「SINET」
 学術以外へ開放なるか

Nikkei Online, 2021年6月5日 2:00


全国の大学や研究機関を結ぶ学術情報
ネットワーク「SINET」は、スーパーコンピューター
「富岳」を支える屋台骨の役割も担っている

「大学病院と小規模な病院を高速回線網で接続し、地方でも高度な遠隔医療を受けられるようにしたい」――

こう意気込むのは、学術情報ネットワーク(SINET=サイネット)を構築・運用する国立情報学研究所(NII)副所長兼学術ネットワーク研究開発センター長の漆谷重雄 教授だ。NIIと日本外科学会などは2021年中に、約2000キロ離れた福岡市と札幌市の病院をSINETで接続し、遠隔医療の実証実験を開始する。

国内拠点間を高速かつ低遅延に通信できるSINETは、学術用途にとどまらず、医療分野や教育分野、産業分野への応用に期待が高まっている。高速性や高い安全性を持つ新たな産業インフラとして活用できれば、さまざまな地域格差を解消する次世代通信網へ活用できる可能性がある。

SINETとは、日本で900以上の大学や研究機関などが利用する、学術情報用のネットワークだ。1987年に運用を開始し、現在は第5世代に当たる「SINET5」の運用が始まっている。全都道府県にSINETのデータセンター(DC)拠点を設置し、DC間を100ギガビット毎秒という大容量の帯域で結んでいる。

全国の大学から富岳が利用可能に


SINET5は全国で975機関(21年3月末時点)
が加入する。国内の各拠点間を100ギガビット毎秒
(東京―大阪間は400ギガビット毎秒)で結ぶ(出所:NII)

現在は主に国内外の研究施設と大学間などでデータを送受信するために使われている。SINETは、スーパーコンピューター「富岳」を支える屋台骨の役割にもなっている。全国の大学などの研究機関から、富岳が設置された神戸市の理化学研究所計算科学研究センターに接続することで遠隔利用を可能にしている。

SINETの特徴は大容量だけではない。商用のネットワークサービスと比べて、低遅延という特徴もある。

SINETは専用ネットワークであるため、商用網に必要なインターネットサービスプロバイダー(ISP)を経由しなくて済む。多くの機器を経由しない分、遅延を抑えられるからだ。ネットワーク設計の自由度が高い広域イーサネット(L2VPN)を使うことも可能で、遠隔地を高速かつ低遅延、さらに安全に結ぶことができる。

SINETでは、そんな高品位なネットワークを、全国47都道府県に設置した計50カ所のデータセンターを中心にフルメッシュのトポロジーで接続している。このような国全土を網羅する研究用ネットワークは、世界でもほとんど例を見ない。米国や中国の研究用ネットワークは光ファイバー網の全長では優位性があるものの、都市間などでの通信にとどまる。

ここに来て、そんな「隠れた日本最強の通信インフラ」とも言うべきSINETを、学術目的以外にも活用していこうという機運が高まっている。東京大学前総長で同大学院理学系研究科教授の五神真氏は、「SINETを、日本列島をくまなく覆うデータ神経網にすれば、デジタル時代の日本の圧倒的な優位性になるはずだ」と期待を込める。

遠隔手術で医療格差解消

実際にSINETを、遠隔手術に活用しようという取り組みが動きだしている。

背景にあるのは、都市部以外での外科医不足の深刻化だ。地域によって高度な医療が受けられない現状がある。都市部の大学病院などと、地方の小規模な病院を接続する遠隔医療であれば、この状況に歯止めをかけられる。

通信回線を経由した遠隔での手術となると、通信のわずかな遅延が医療事故を引き起こす可能性がある。「遠隔手術で許容できる遅延時間は100ミリ秒以下。低遅延が特徴のSINETなら問題ない」と漆谷氏は力を込める。

実際、NIIと日本外科学会は21年6月にも、メディカロイド(神戸市)が開発する手術支援ロボット「hinotori(ヒノトリ)サージカルロボットシステム」を使って実証実験を実施する予定だ。医師側となる九州大学病院(福岡市)と、患者側となる北海道大学病院(札幌市)をSINETで接続する。


オンデマンド接続で遅延の少ない遠隔手術ができる
(出所:NIIの資料を基に日経クロステックが作成)

通信の流れはこうだ。まず、福岡市と札幌市に設置したSINETのデータセンター間を、仮想的にレイヤー2接続できる「L2オンデマンド(L2OD)」と呼ぶ通信手段で接続する。2拠点を結ぶ仮想的な専用ネットワークとして経路や帯域を保証した形で通信できる。

九大と北大はそれぞれで構内に敷設する専用光ファイバー網を使い、病院同士を接続する。九大病院から北大病院までのエンドツーエンドの通信は、医療ロボット用の仮想LAN(VLAN)でやりとりする。

2つの地点で送受信するデータは、ロボットの操作に加えて、手術台の様子を映した映像データも含まれる。hinotoriは手術器具や内視鏡を取り付けたアームを4本搭載する。九大病院から北大病院へは医師のロボット操作を伝送し、北大病院から九大病院へは100メガビット毎秒で圧縮した手術台の映像を送る計画だ。

「経済性や倫理性などの非技術的な課題を含めて検討し、最終的には遠隔手術のガイドラインを策定することを目指したい」(日本外科学会)

SINETは、中心となる拠点が存在しないフルメッシュ構造だ。そのため地域格差が課題となっている医療分野の問題解決につながりそうだ。SINETのどのデータセンターに接続しても、通信パフォーマンスなどは変わらず、提供サービスの地域格差が起こりにくい構造になっているからだ。

もっとも、山間部など小規模な病院で遠隔手術するには課題が残る。SINETの利用には、利用機関自らが、SINETが全国に設置する最寄りのデータセンターまでのアクセス回線を調達する必要がある。地域の大学病院といった大規模な機関ならまだしも、小規模な病院がアクセス回線を自前で調達するとコスト高になるだろう。

ここに来て、そんな課題を解消できる、新たなSINETのサービスが登場している。NIIが18年から実証を進めている、アクセス回線として携帯大手各社の携帯電話サービスを利用できる「モバイルSINET」だ。携帯大手各社のキャリアモバイル網を使って、VPN(仮想私設網)経由でSINETのデータセンターにアクセスできる。センサーやスマートフォンなどのモバイル端末からも手軽にSINETが利用可能になった。

医療分野にモバイルSINETを活用すれば、山間部の病院などでも遠隔手術が可能になるかもしれない。

NIIと徳島大学医学部は実際に山間部での活用を検討するため、移動式実験施設での実証実験を実施している。自動車に取り付けられたコンテナを使い、動物が感染した病気を鑑定するという内容だ。モバイルSINETで手術映像などを徳島大学に転送し、手術支援や学生の遠隔実習に活用できたという。

モバイルSINETは、現在4Gで通信する。22年度に導入予定の次世代の学術情報ネットワーク「SINET6」からは、高速通信規格「5G」や地域限定のローカル5Gで利用できるようにしていく計画だ。アクセス回線に低遅延が特徴の5Gを活用できるようになれば、SINETの応用分野はさらに広がりそうだ。

規程の見直しが焦点に

幅広い分野への応用に期待が高まるSINETだが現状、学術機関以外が気軽に利用できる状況にはなっていない。NIIが定めるSINETの利用規程である「国立情報学研究所学術情報ネットワーク加入規程」では、利用できる主な対象を、大学や研究機関など、研究を目的とする機関に限っているからだ。

医療機関や企業は、大学などとの共同研究契約がなければ利用が難しい現状がある。今後、地方の小規模な病院などが遠隔手術などに活用できるようにしていくには、こうした規程の見直しも必要になるだろう。

「(SINETは)産業利用の促進や生涯教育・初等中等教育での活用につながり、広く社会一般にも貢献する」。日本の大型研究計画の指針である日本学術会議の「マスタープラン2020」は、SINETの方針をこのように示している。

商用クラウドサービスの展開など、間口は確実に広がりつつある。「(SINETを使って)リアルタイムのデータを正しく活用することで、経済的にも非常に大きな価値が生まれる」と五神教授は期待する。

そんなSINETは、22年4月から第6世代のSINET6の運用を本格的に開始する予定だ。沖縄を除く日本全国の拠点間を、現在の4倍となる400Gビット/秒の帯域で接続する。


22年4月からSINET6に本格的な運用を開始予定。
小中学校などへのSINETの開放時期は
現在未定という(出所:NII)

データセンターも70カ所に拡張し、「地域差のないネットワーク」(漆谷氏)を目指すという。「SINETが新技術を導入するリーダーになれるように、帯域需要を見ながら構築・運用を進めていきたい」とNII学術ネットワーク研究開発センター副センター長の栗本崇准教授は語る。

(日経クロステック 久保田龍之介)

[日経クロステック2021年5月28日付の記事を再構成]