不条理な病 カミュの「ペスト」が描いた人間の誠実さ

疫病の文明論(2) 沼野充義(スラブ文学者)

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「ペスト」を書いたカミュはノーベル文学賞を受けた(1957年) (c)Roger-Viollet/アマナイメージズ提供

感染症の流行は今に始まったことではなく、古来人間社会を繰り返し襲っては大きな爪痕を残して現代に至っている。

古代ギリシャのトゥキュディデスによる『戦史』は、紀元前5世紀のペロポネソス戦争を扱った歴史書だが、ここにも、当時アテナイの町を襲って膨大な死者を出した疫病が詳細に記録されている。トゥキュディデスは医師でないが、いかにも歴史家らしく客観的に、感染した人々の症状を描き出す。罹病(りびょう)者が孤立し、絶望に突き落とされる様子は、現代でも変わらず、真に迫る。

感染症流行の影響は戦争などよりも大きく、人類の歴史の流れにしばしば決定的な影響を与えてきた。それを鮮やかに提示し、疫病との戦いの意味を何よりも雄弁に語ってくれるのは、じつは文学作品ではないかと思う。

20世紀の文学に限って見れば、最も重要なのはカミュの長編『ペスト』(1947年)だろう。アルジェリアの港町を舞台に、まず多くのネズミがばたばたと死んでいき、やがてその疫病が人々を襲ってペストだと判明し、死者がどんどん増え、町がロックダウンされる。そして閉じ込められた人々の苦悩と戦いが、医師による緻密な記録を通じて眼前に繰り広げられる。

疫病という「不条理」に直面したときこそ、人間性があぶりだされるのだ。しかし、疫病と戦う医師は人並み外れたヒーローとして美化されるわけではない。医師は一番大事なのは自分の仕事を果たす「誠実さ」だと語り、その言葉は私たちの心を打つ。これこそは今の日本の政治に一番欠けているものではないか。

とどめ難いパンデミックはグローバルな視野から見れば、もっと別の政治的な意味合いを帯びた、いわば隠喩(メタファー)として機能することもある。

たとえばチェコの作家カレル・チャペックには『白い病』(37年)という戯曲があるが、これは体に白い斑点ができ、急速に体全体が腐っていき、やがて死に至るという奇病が蔓延(まんえん)して、世界がパニックに陥るという前提に基づいている。しかし、単なる架空のSF的設定ではない。戦争直前の緊張した国際情勢の中、「熱病にかかったように」軍備が進められている世界で、いかにして独裁者を倒し、世界平和を実現できるかという、作者の切実な思いが込められている。

沼野充義氏

疫病のウイルスはもっと直接的に、「生物学兵器」として使われる可能性もある。そのアイデアを利用して書かれた長編が、日本を代表するSFの巨星、小松左京による『復活の日』(64年)だった。

たまたま漏れ出した殺人ウイルスがあっという間に世界中に広がり、人類のほぼ全部が滅亡する。残ったのはウイルスが活動できない極寒の南極の基地に滞在する一握りの人たちだけ、という破局ものSFだが、ここでは疫病と並行して、東西冷戦下の世界で現実的なものとなった核ミサイルによる人類終末の危機が描かれている。小松左京が示してくれたのは、どんなに科学技術を発展させても、どんなに強力な兵器で武装しても、病気に冒されたらひとたまりもない生き物としての人間の本質的な弱さである。

疫病を描いたこれらの作品をいま読むと、これまで絵空事のようにしか思えなかったことが急に現実味を帯びたものに見えてくる。そして、感染症流行という困難な状況に直面したとき、人間はそれにどう立ち向かい、どう生きるべきなのか、そのために必要な勇気とモラルとは何なのか、教えられるところが大きい。これこそが優れた文学作品の力であろう。