神への畏怖もたらした黒死病 西欧世界の社会変化促す

疫病の文明論(5) 池上俊一(歴史学者)

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14世紀半ばには欧州人口の6割が黒死病で死んだとされる
(ジル・ル・ミュイジ「トゥルネーの黒死病」[1349年]) Bridgeman Images/アマナイメージズ提供

ボッカッチョの『デカメロン』の冒頭には、フィレンツェを襲ったペストの猛威が描き出されている。人々は昼夜を分かたず畜生(ちくしょう)のように道端や耕作地や家の中で死んでいき、親は子を、妻は夫を捨て、死者を弔う習慣もなくなった……と。

このヨーロッパ史上最大の疫病は1347年、ジェノヴァ人の船によって黒海沿岸からメッシーナ、マルセイユなどに持ち込まれ、翌年にはヨーロッパ中に蔓延(まんえん)した。媒介役となったのは、地中海の港や船舶を巣窟にしていた鼠(ねずみ)と蚤(のみ)である。ペストに罹(かか)ると、腋(わき)の下や腿(もも)の付け根にリンゴや鶏卵くらいの腫瘍が現れ、また身体のあちこちが黒い斑点に覆われる。3日以内、いや数時間で死ぬこともあった。蚤の媒介する腺ペスト以上に、咳(せき)・唾液で人から人へと伝染しいきなり肺を冒す肺ペストが恐ろしかった。

最近の研究では、47~48年の「黒死病」によりヨーロッパの人口のじつに6割が死んだとされる。ヨーロッパではこの最初の大流行の後、1720年までほぼ4世紀にわたって、10~12年ごとにペストが再来した。もちろん何の方策も講じられなかったわけではない。しかし大気腐敗説を信じた人々には、バラの花びらを部屋に散らしたり、香料を燻蒸(くんじょう)したりするくらいしか対抗手段はなかった。後には衛生対策、火による消毒、患者の家や感染地域・都市の封鎖、船の検疫なども行われたが、本当に有効な治療法が実現したのは、20世紀になってからであった。

黒死病は、伝染力があまりに強烈であったため、「死ね裏切り者ども」と叫び声を上げてユダヤ人をスケープゴートにしたほか、鞭(むち)打ち苦行団などに窺(うかが)えるように「峻厳(しゅんげん)な神」を畏怖する心性が広まった。

ヨーロッパではペスト以外にも繰り返しパンデミックが流行し、それぞれ異なる心性をもたらした。中世に最初に襲い掛かった大規模な流行病は、「聖なる火」と呼ばれた麦角性壊疽(えそ)で、10世紀半ばに発生して4万人が斃(たお)れたという。11~13世紀に広まったハンセン病は、当時、伝染力が強い不治の病と恐れられ、淫乱の罪への神罰と目される反面、罪の贖(あがな)いと天国での栄光に導くとのイメージもあった。2つの病とも、聖なる世界と結びつけられ、慈善施設設立や病を祓(はら)う念入りにして暗鬱な儀礼の練り上げなど、宗教的・社会的な飼い慣らしがそれなりに可能であったのは、ペストとの大きな違いである。

池上俊一氏

近代に入ると、結核が産業革命後の経済人の負の側面を象徴するとともに、生の開花期を迎えた若者たちを狙い打ちすることから、ロマン主義文学に恰好(かっこう)の題材を与えた。さらにコレラや梅毒は、品位を貶(おとし)める下等な病気、あるいは汚れた者、酒に溺れた者、堕落した者への報いであるとされた。1980年代から90年代に広まり記憶に新しいエイズは、非合法薬品、異常セックス、制度転覆、文明崩壊のグロテスクな空想をかきたてた。

だが病気には本来、道徳的な意味などないはずだ。またどんな恐ろしい疫病も、文化や社会が不可避的に歩んでいくべき進行を速めただけという考え方もある。黒死病にしてから、経済活動の停滞をもたらし、伝統的な社会・家族構造を破壊し、キリスト教世界のモラルをぐらつかせはしたが、それはすでに兆していた動向を加速しただけなのかもしれない。ペストの猛威を冒頭で描写した『デカメロン』でも、本文は打って変わって愉楽と機知に溢(あふ)れた会話が満載で、明るいルネサンスの気分を先取りしているのである。