「四面楚歌」の由来

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四面楚歌」は中国の秦~前漢の時代、紀元前202年の出来事が元となってできた故事成語です。まずは当時の状況を年表と地図で見ていきましょう。

「四面楚歌」の故事の時代


四面楚歌」の故事の時代(年表)。

紀元前202年の出来事です。
紀元前206年に秦が滅び、紀元前202年に劉邦が即位する直前です。

「四面楚歌」の故事の場所


四面楚歌」の故事の場所(歴史地図)。

垓下での出来事です。

「四面楚歌」の故事


張良(劉邦の軍師)の策略により、楚の歌を聞いた
項羽軍の兵士たちが脱走していく場面。

劉邦と天下を争う項羽の軍隊は垓下(がいか、現在の安徽省宿州市)に砦を築きます。兵士の数は減り食糧も乏しく敵の兵がこの砦を幾重にも取り囲んでいます。夜になると劉邦軍の兵士が項羽の故郷、楚その歌を歌う声が聞こえてきます。項羽はこれを聞いて驚き「楚の人間はみな敵に寝返ってしまったのか」と嘆きました。ちなみに楚とは中国の江南地方にあった地域名(元は国名。のちに秦に滅ぼされる)で、項羽はこの楚にある貴族の家柄の出。姓を項、名を籍、字を羽といい、一般に項羽と呼ばれます。

項羽は別れの杯をかわそうと床から起き帳とばりの中に入ります。この戦いにずっとついてきた虞美人ぐびじんという名の愛妾もいっしょです。また騅すいという名の名馬もそばにいます。ここで項羽は詩を作ってそれを朗詠するのです。


項羽と虞美人の別れの場面。

項羽の歌の原文

    力拔山兮气盖世

    时不利兮骓不逝

    骓不逝兮可奈何

    虞兮虞兮奈若何

項羽の歌の書き下し文

    力は山を抜き、気は世を覆う

    時利あらずして騅すいゆかず

    騅のゆかざるを如何いかんすべき

    虞や虞や汝を如何せん

項羽の歌の現代語訳

    私には山を引き抜く力と世を覆う気迫があった。

    今時運を失い、愛馬騅も歩もうとしない。

    前に進まぬ騅をどうしたものか。

    虞よ虞よお前をどうしたらよいものか。


虞美人(虞姫)。自ら剣を取り自害します。

この歌を何度か繰り返し歌っていると虞美人もともに声を合わせます。項羽は涙を流し、お供の者も皆嗚咽をもらし顔を上げるものもおりません。

項羽はこののち劉邦軍の追撃を振り払って東方の烏江うこう(現在の安徽省を流れる川)に向います。この時項羽に従う者は28人。項羽もここを最期の場所と覚悟を決めます。

烏江では宿場の長おさが船出の用意をして待っており、項羽にこう申し出ます。

「長江の東、江東の地は小さいところではありますが、そうは言っても千里四方の広さがあり、住民の数も数十万を数えます。大王様、どうかここを領地に捲土重来を期してください。急いで向こう岸に渡りましょう。船はこれ一艘のみ、渡ってしまえば劉邦軍はついてはこられません」

すると項羽は笑って

「天が私を滅ぼそうとしているのだ。今さらこの川を渡ってどうする?江東の若者八千人とここから西に向かって出陣したのだ。その一人とて今生き残ってはおらぬ。その親にどの面下げて会えると言うのか。彼らが文句を言わなかったとしても、私は私を恥じずにはいられない」

さらにこの長に向かって

「立派な人物とお見受けする。この馬を見てくれ。この馬に乗って五年、当たるところ敵なしだった。ともに一日に千里を走った。殺すには忍びない。こいつを引き取ってはもらえぬか」


項羽の最期。

項羽は武者全員に馬から下りるよう命じ、それぞれが短い刀剣一つで追ってきた敵と戦いました。項羽ひとりで数百人の敵を倒し、自身も十か所以上の傷を負いました。劉邦軍の騎兵隊長・呂馬童りょばどうを見て「お前はわしの顔なじみではないか」と言うと、相手も項羽を見て「ああこれは項王だ!」と叫びます。項羽は「この首には莫大な賞金が掛けられ、得た者は万戸の諸侯になれると聞く。お前にくれてやろう」と言うや自分で自分の首を切り落としたのでした。

この悲壮な物語から生まれた故事成語が「四面楚歌」です。
楚の人間が楚の歌に囲まれるのですから、なぜ周囲がみな敵という意味になるのか不思議です。
実は味方がみな寝返り、敵方に回って自分を包囲しているという話からできた故事成語なのです。


虞美人草


虞美人草。

虞美人草ぐびじんそうという花があります。日本では「ひなげし」「ポピー」などと呼ばれていてケシの仲間です。フランス語では「コクリコ」と言います。

中国でこの花を「虞美人草」というのは、この「虞美人」に由来しています。この花の赤い色が虞美人の血の色のようだからと言われています。


虞美人草。鮮やかな赤をしています。

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