表彰式で観客の君が代大合唱を聞いた稀勢の里は涙でクシャクシャになった。 「自分の力以上のものが出た。 見えない力が働いた」。 荒れに荒れた春場所の最後、大きなドラマが待っていた。
優勝決定戦に持ち込むには勝つしかない本割。手負いの新横綱を鼓舞する手拍子の中、真っ向勝負が身上の稀勢の里が右に変わった。照ノ富士に差されて頭をつけられたが、不成立で止められた。2度目の立ち合い。「同じことはできない」と左に飛んだ。
頭を下げての懸命な押し合いも組み止められて右前みつを許し、痛めた左腕を絞り上げられた。防戦一方の苦しい展開だったが、後退しながら左腕を抜く。回り込みながらの右突き落としに大関の巨体が落ちると、館内は熱狂に包まれた。
続く決定戦。立ち合いのもろ手突きがすっぽ抜け、あっという間に左を差された。棒立ちで後退し、勝負ありと思われたその瞬間。右からの小手投げに照ノ富士がひっくり返った。
新横綱では貴乃花以来22年ぶりとなる2場所連続の優勝は紛れもない奇跡だ。13日目の日馬富士戦で左肩を痛め、救急車で運ばれた。強行出場した14日目は鶴竜になすすべなく寄り切られた。まともな相撲が取れる状態ではない中、怪物大関に2度勝ったのだ。
「気持ちだけぶつけようと思って土俵に上がった。諦めないでよかった」と稀勢の里。「5月に元気な姿を見せられるよう、あすから治療に専念したい」と続けた。
2001年夏場所、大ケガを押しての出場で優勝した貴乃花はその後、7場所連続休場に追い込まれ、以降、優勝することはなかった。この日、優勝した事実をもって稀勢の里の強行出場が「正しい選択」だったというのは難しい。だが感動はしばしば、理屈を超えたところで生まれるということも、またひとつの真実である。
(吉野浩一郎)