Nikkei Online, 2023年9月2日 8:33
8月24日に始まった東京電力福島第1原子力発電所の処理水の海洋放出にあわせて、中国からとみられる迷惑電話が相次いだ。自治体職員や小売・飲食店主らを悩ませたが、放出開始から1週間たち勢いは落ち着きつつある。ただ中国発とみられる誤情報はインターネット上で拡散し続けている。
8月25日午前3時すぎ。東京都内のコンビニに着信音が響いた。「こんな時間に珍しい」と思いつつ、店員の女性が受話器を取ると、からかうような数人の笑い声が聞こえてきた。日本語は通じず、何を話しているのかは分からない。
「怖いけど、大切な電話だったらどうしよう」。不安に思った女性は店長に報告のメッセージを送った。それから数日間、この店に大量にかかってくる嫌がらせ電話の始まりだった。
26〜27日の週末は、昼過ぎから断続的にかかってきた。やはり言葉は通じなかったが、機械で合成したような音声で「汚染水をなぜ流すのか」「海に流すなら、おまえが飲んでみろ」という日本語が聞こえてきた。こちらが反応すると、笑い声が返ってきた。
店長の男性も当初は不気味に思ったが、27日になると「迷惑電話が全国で相次いでいる」という報道を目にするようになる。「うちに来ているのはこれか」と安心する一方、今度は別の気持ちがわいてきた。「電話代もかかるだろうに、なぜわざわざこんなことをするんだ?」
記者は9月1日、迷惑電話を受けた新潟県内の事業所の協力を得て「+86(中国の国番号)」から始まる発信元に、折り返しの連絡を試みた。
数コールの後に電話を取ったのは、声の様子から判断するに40〜50代とおぼしき男性。「発信先の番号をどうやって知ったか」など記者の質問には答えなかったが、電話した目的については「日本政府に抗議したかった」と話した。
今回のような電話をするのは初めてという。「(誰かに依頼されたのではなく)自分でかけたのか」と聞くと、数秒の沈黙を経て「そうだ」とだけ答えた。記者が質問を重ねると「日本人も中国大使館に迷惑電話をかけている。どうして中国人が日本に電話をしてはいけないのか」と声を荒らげた。
迷惑電話のフィルタリング事業を手掛けるトビラシステムズによると、同社の法人向けサービスの利用企業では、中国から日本国内への着信件数が8月24日から急増。最も多かった25日には平時の10倍から数十倍に膨らんだ。
その後、直近ではやや落ち着きをみせている。冒頭のコンビニ店舗も、8月末時点では1日数件程度の着信まで減ったという。
今回のような事態が発生した背景に、中国からの情報工作を疑う声もある。
台湾のセキュリティー企業TeamT5によると、菅義偉前首相が海洋放出の方針を示した2021年4月以降、「原発汚染水」などのハッシュタグを用いた日本語による投稿が相次ぎ、中国の国営メディアや中国の在日領事館が拡散に関与していた。
同様のハッシュタグの投稿数をX(旧ツイッター)上で調べると、1〜5月は1日当たり平均36件だったが、国際原子力機関(IAEA)の福島視察や最終報告書の公開など放出への機運が高まった6〜7月は同68件に増加した。
岸田文雄首相が福島県を訪問するとの報道が流れた8月18日には投稿数が一気に1111件に増え、21日には1934件に達した。18日以降に多くの投稿を繰り返しているアカウントは日本の歴史認識や軍事費の増額を批判する投稿も目立った。
こうした投稿には科学的根拠を欠くものや、事実とは異なるデータを用いて日本の対応を批判しているものも少なくない。誤情報が中国人の感情を刺激し、迷惑電話の殺到を助長した可能性がある。
国際政治や国家の情報工作に詳しい一橋大の市原麻衣子教授は「経済成長が鈍るなか、国民の不満を国外にそらす狙いがあるのでは」と指摘する。処理水の海洋放出は、日本国内でも反対意見のある問題。「相手国の社会の分断を図りやすく、情報工作の格好の対象になった」と話す。
3日は抗日戦争勝利記念日、18日は満州事変の発端である柳条湖事件が起きた日で、中国では反日機運が高まりやすい時期が続く。
中国政府は8月上旬に日本行きの団体旅行を3年半ぶりに解禁した。処理水問題が長引けば、インバウンド需要に期待する日本経済にとっても痛手になりかねない。