渋沢栄一

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)

略歴

江戸時代末期に百姓[2](豪農身分)から武士(一橋家家臣)に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり、明治政府で官吏となる。
民部省を経て直属の上司である井上馨(大蔵大輔)の下で、吉田清成(大蔵少輔)らと共に造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。

井上馨と共に退官後は実業界に転じて実業家の肥田理吉らと日本経済の在り方を論じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わった。
そのうち企業は約500社にもおよび、「日本資本主義の父」 、「東の渋沢、西の五代」とも称され、薩摩藩士・五代友厚(才助)と双璧を成した。


合本主義

公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め事業を推進させるという考え方。
広く資本を糾合するという事から、狭義には株式会社制度の意に使われるが、栄一は私益のための資本の集中では無く、公益の追求、より良い社会の実現のために、資本や人材を合わせる事の重要性を説いたものと解される。

道徳経済合一説

栄一は大正5年(1916年)に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。
幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益(=算盤)の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。
『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている。

富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。

そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないと言っている。
また、同書の次の言葉には、栄一の経営哲学のエッセンスが込められている。

金銭資産は、仕事の滓である。
滓をできるだけ多く貯えようとするものはいたずらに現世に糞土の牆を築いているだけである。
事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。
そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。

2024年 紙幣 壱万円札に採用される。


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