なぜ心に鬼が宿るのか 小松和彦さん

国際日本文化研究センター名誉教授(人間発見)

    Nikkei Online: 2022年4月10日 5:00

1947年生まれ。東京都立大学大学院修了。
信州大学助教授、大阪大学教授、国際日本文化
研究センター教授、所長を歴任。現在は同名誉教授。
民俗学、妖怪・鬼研究の第一人者。2016年文化功労者。74歳
人間の力では防げない疫病や大災害が繰り返し世界を襲う。その災いを鬼に背負わせて、不安を和らげカタルシスを得る。妖怪の研究などで知られる小松和彦さんは鬼の役割をそう考える。ところが新型コロナウイルス禍が続く今、「生身の人間に鬼を背負わせるヘイトがまん延している」と危惧する。人間を排除しない、新しい鬼の文化を模索し続ける。

感染症で非日常が日常化したこの2年間の日本社会を見ると、これまで研究してきた文化人類学や民俗学はいったい何だったんだろうと暗い気持ちになります。人間を鬼とみなさず、異形の他者を理解する。異文化とのコミュニケーションを受け入れて差別をなくす。多様性と共生に役立つ学問だと信じてきました。

ところが、コロナの感染者を加害者扱いして村八分にする。マスクをしない人や営業を続ける飲食店に嫌がらせをする。規制に同調しない者を鬼に見立てて圧力をかけ排除する。そんな報道が後を絶ちません。自分と違う人を違うというだけで排除するヘイトがあふれています。それはコロナよりもずっと恐ろしい病ではないかと思います。

漫画「鬼滅の刃」の累計発行部数(電子版含む)が1億5千万部を超え、映画は過去最高の興行収入を記録した。

平和な時代は「鬼の物語」は低調になります。例えば平安時代から武士の時代へと変化していく間には妖怪・鬼退治の物語が広がり、世の中が落ち着くとマンネリ化した鬼の話しか出てこなくなります。室町時代前半の動乱の時には都(みやこ)を脅かす酒呑童子のような鬼の話が作られた一方、江戸時代には鬼は娯楽化しました。そして幕末、ペリーは鬼と表現され恐れられました。

災害や疫病も鬼文化と深くつながっています。地震、津波、台風、噴火、そして長く続く感染症。命にかかわる不安や恐怖を鬼に背負わせ、祭や芸能、絵画など大衆文化の中で一種のガス抜きをする。鬼の文化は人間が安らかになれるように人間が作ったメカニズムなのです。鬼や化け物の漫画・アニメがはやるのは、それだけ不安や恐怖が強いということだと思います。

ところがその鬼文化がうまく機能していない。アニメだけでは不安が解消されず、ガス抜きが異質な人間の排除に向かっている。実は昔から人間に鬼を背負わす負の側面はありました。例えば風邪がはやると人形を作って川に流して追い払う風習があるのですが、その時、人形だけでなく人間を雇い、その人に「汚(けが)れ」を背負わせ川に流すということが行われていた。こうした排除意識がよみがえっているようで怖いのです。

京都の祇園祭は本来、疫病退散を願う祭りだが、2020年から2年続けて山鉾巡行は中止された。

コロナ禍でこそやるべき疫病退散の祭りができなくなっています。昔の人たちだって、祭りをやれば疫病が収まるとは思っていない。でも「不安から逃れたい」「邪気が収まってほしい」という共通の願いがあります。それを表現したいという思いがある。

カタルシスという言葉があります。心の中にある悲しみや苦しみを浄化するという意味ですね。すぐに解決するわけではないが、祭りを通じてカタルシスを共有すればみんなで前を向ける。

邪気を払うカタルシスのメカニズムを科学の時代にどう表現するか。それが求められています。漫画やアニメかもしれないし、全く新しいファンタジーでもいい。ただ、どんな表現であれ、不安や恐怖を人間の排除に向かわせてはいけません。それでは人間が鬼になってしまいますから。

函館にいた7歳のとき、青函航路・洞爺丸が台風による強風で沈没した。死者・行方不明者1155人という日本海難史上最悪の惨事となった。1954年9月26日のことだ。

あの時のことはよく覚えています。母が「台風は収まったみたい」と口にしました。その言葉通り一時的に静かになったのですが、夕方、船が出た途端に再び猛烈な雨と風になった。港を出て数時間後に船はひっくり返りました。

父は旧厚生省の職員で、当時は函館の検疫所勤めでした。生まれ育った東京から家族で移り住んだのです。検疫所は函館山の西側にあり、官舎からは函館湾が望めます。洞爺丸だけでなく、湾内のあらゆる船から「ボー、ボー」という音が聞こえた。あれはSOSの汽笛だったのでしょう。暗い波間に船の明かりがいくつも揺れていました。

翌朝、家族ぐるみで付き合っていた近所の大きなお寺に次々と遺体が運ばれてきました。硬直した遺体の服を大人たちが懸命にハサミでジョキジョキと切っていて、遺体の臭いが鼻をついた。その時の映像と臭いは鮮明に覚えています。「ああ、人間って死ぬんだ」と思いました。しかも、「寿命で順調に死ぬわけじゃないんだ」と思いました。

住んでいた官舎の近くには検疫所の隔離施設があり、お寺とお墓と火葬場があった。

函館の地で「異界」を知る
(母と弟と函館山の展望台で、右端が和彦さん)

今思えば「あの世に最も近い場所」に暮らしていました。隔離施設に幽霊が出るという噂話がありました。毎日のように家の前を霊きゅう車が通り、火葬場の煙が臭った。母から夕方お使いを頼まれ、近くの店に買い物に行かされることがありました。暗闇の中、お墓を通らないと店には行けないんです。それが震えるほど怖かった。

ところが、函館山を下るとまったく違うにぎやかな漁師町の空間が広がっています。この世とあの世がつながっているような、その強烈な対比は子ども心に感じていたと思います。あるいは「異界」という存在を何となく感じていた。今の仕事につながる原体験といえるかもしれません。

今の仕事につながるといえば、様々な民俗行事も盛んでした。青森のねぶた祭りの原点になったような七夕祭りで、笹(ささ)に短冊を付けて、子どもたちが家々を回ったり、地元に伝わる神話や伝説を聞いたりするのはとても楽しかった。函館にいたのは3年間だけでしたが、濃密な時間を過ごしました。

函館の後、父親の仕事で再び東京に戻り、羽田空港の近くの官舎で暮らす。近くに映画館があった。そこが2つめの原体験の場だった。

東映の時代劇の黄金時代で、片岡千恵蔵や市川右太衛門、大友柳太朗らが活躍していました。時代劇にも夢中になりましたが、私が最も興味を引かれたのは、夏になると必ずかかる「四谷怪談」などの怪談ものです。小学校の高学年の頃ですかね。私にとっては初めての映画体験です。

さらに洋ものでは「ドラキュラ」が衝撃的でした。大人になって、悪魔払いを描いた映画「エクソシスト」を見た時も同じ衝撃を受けました。ドラキュラよりも、ドラキュラを退治するヘルシング教授の方に興味を引かれました。「妖怪を退治する先生がいるんだ」と妙に感心したものです。函館は異界との出会い。映画体験は霊や妖怪など異質な者との出会いです。

国際日本文化研究センター(日文研)がある京都には、異界を感じることができる場所がまだ残されています。例えば北の山の中にある貴船神社の周辺。貴船神社には鬼の伝説があり、「丑(うし)の刻参り」の神社としても知られていました。人間の世界とは違う異界の空気が感じられます。貴船のさらに奥にある鞍馬山は天狗(てんぐ)のすみかとして有名な場所です。

異界の入り口に立つと怖いけど、でも入っていきたくなります。子どものころの興味がずっと残っているからなのでしょう。

高校から大学にかけて、視野を世界に広げ、多様な人間の魅力に気付かせてくれる出来事が2つあった。1つはベトナム戦争だ。

中学生の時に父が病気で亡くなり、旧厚生省の官舎を出なくてはならなくなりました。母は兄と弟と私の3人の子どもを育てるために家と仕事を探し、東京の府中競馬場の近くに住みました。保険の外交員や競馬場の馬券売りなど本当によく働いてくれたと思います。私は都立国立高校に進学したのですが、当時は米軍立川基地がまだ近くにありました。

埼玉大学に進んだころ、その立川基地の北側にできた巨大な都営村山団地の抽選に当たり引っ越しました。ベトナム戦争のさなかです。真夜中でも、基地の滑走路から米軍機が爆音を響かせてベトナムに向け飛び立つのです。日本中で学生運動が起きていた時期でもあります。私にとってベトナム戦争はとても生々しく身近な問題でした。

ベトナム戦争の長期化に伴い、立川基地を拡張する計画がありました。地域住民は拡張に反対する組織を作って激しく抵抗を続けていました。いわゆる砂川闘争です。組織には入りませんでしたが、その後の全共闘の端くれにも名前を連ねました。ベトナム戦争とその反対運動は、世界の人間に興味を持つ大きなきっかけになりました。

視野を広げるもう1つの出来事は、埼玉大学で出会った文化人類学者の石田英一郎さんの言葉だった。

大学では情報社会学とか国際関係論とか様々な授業がありました。そして文化人類学もあった。石田英一郎さんの講義を聞いて、そのスケールの大きさに圧倒されました。人類の発生から現代の地球上の人間の生活まで。西洋文化もアマゾンの暮らしもすべて人類学だと。そして「人間のやっていることならテーマは何でもいい」と言うのです。研究対象はすべての人間だと言われ、私は何だかとても自由な気分になりました。

石田さんは「桃太郎の母」という本を書いています。河童(かっぱ)の研究本も出しています。実は、国立高校の文学研究部の先輩に、民俗学者の柳田国男の本を熱心に勧める先輩がいました。でも私は太宰治とか宮沢賢治が好きで面白さがわからなかった。ところが、石田さんの話を聞いてからやっと民俗学の魅力に目覚め、柳田や折口信夫を夢中で読むようになります。

神話や伝説、そして妖怪や鬼に関心は広がりました。埼玉大では秩父の旧両神村の調査をして、今の研究につながる憑(つ)きものや神隠しといった民間信仰にかかわる話を村民から聞きました。研究は楽しい謎解きだと感じるようになりました。

異質な世界への興味は、子どもの頃から転校を繰り返してきたことと関係している。

埼玉大時代、秩父の旧両神村に調査に出向いた
(左端が小松さん)

転校するといじめられます。東京から函館に行った時も、言葉や服装が「すかしてやがる」と言われた。学校が変わると異人扱いされるのです。行きは集団登校でしたが、帰りは人けのない場所を1人歩いて帰るので狙われます。一番記憶に残っているのは、崖の上から雪の中に突き落とされたことです。泣きながら帰ることがよくありました。

私は中学校の頃まできつ音でした。授業で当てられるとカッと顔が熱くなり、余計に言葉が出なくなる。集団になじまないといけないと思っているのに、さらに少数派の異人になってしまうのです。

「慌てなくていいよ。一呼吸置いて自分の声を聞くようにゆっくり話してごらん」 中学の女性の先生がそう言ってくれました。その言葉で、だんだんきつ音が直ったのです。すると、まわりに同調しなくても大丈夫になりました。

映画や本が好きで、周りからは何を考えているかわからないと思われていたのでしょう。でも「異人の側」にいた窮屈さから解放されると「自分は自分。異人でもいいや」と思えるようになったのです。

1980年から10年以上にわたり、ミクロネシアの離島ポンナップ島の暮らしを調べた。

母子家庭だったので、埼玉大学を卒業したらすぐに就職して稼ぐべき立場でした。でも、どうしても海外を見てみたかった。海外調査をするには大学院に進み研究者になるしかありません。学費はアルバイトで稼ぐと約束して、東京都立大の大学院に進ませてもらいました。

しかし、このポンナップ島での体験は人間の多様性と同時に、人類学の奥深さを思い知らせてくれました。都立大の調査団に入り、長いときは半年、短くても数カ月、島の人たちと一緒に暮らしながら、伝統的な漁や農作業から祭りや伝承、性生活まで広く調べさせてもらいました。

人口は500人ぐらいの小さな離島ですが、1人の研究者が集落の文化全体を把握するには離島を研究するのが一番いいんです。驚いたのは家族のありようです。私の家族観や考え方そのものを打ちのめしてくれました。

完全な母系社会で、15~20人も子どもを産む人もいる。父親は複数いることが多いが、どの父親の子どもかはよくわからない。

年配の女性に「あなたの夫の話を聞かせてください」と尋ねると、「今の夫?」と聞き返されます。そして、これまでの夫の名前が何人も出てきて、思い出せないこともある。誰のおなかから生まれたかが重要で、父親が誰かは重要ではありません。

子どもは父親が違っていても母親の家で一緒に暮らします。母親のそのときの夫も一緒ですが、妻にふられれば出て行き別の女性と夫婦になる。でも結婚式はしない。

例えば、若い女性がグアムの大学に行って、おなかを大きくして帰って来たことがありました。でも父親はわからないと言う。子どもが生まれて金髪だと「ああ、あの時の彼か」と。そんな感じです。女性が夜ばいをかけることも多い、おおらかな生活です。ある男性が「小松さんの所へ夜ばいをかけて子どもを産んだらどうか」と妹に持ちかけたことがありました。私は驚いて追い返しましたけどね。

ミクロネシアでは、日本人との間にできた子どもは頭がいいとか、金もうけがうまいとかいう話がありました。強い子孫を残す選択肢を増やしたいという感覚があるのでしょう。夫婦は添い遂げるのが理想といった価値観は世界共通ではないのです。

ポンナップ島での異質で多様な人間生活の体験は、その後の妖怪・鬼研究の質を決定的に高めた。

文化人類学の研究でお世話になった
指導者の夫妻と(トラック島の空港で)

ポンナップ島での研究と生活は、異文化体験としてもとても印象深いものでした。ただ、日本と共通する環境もあります。昼間は暑いが、夕方は涼しい。水平線に沈む夕日を眺めながらボーッとするのは、何よりも安らぐひとときでした。異質な世界でも共生することができる。そう実感できました。

日本は自然の景観が多様で、集落ごとに地域色が強い。各地に異界があり、妖怪や鬼など異質なるものの神話や伝説がたくさん生まれました。疫病が広がれば、アマビエのような疫病と豊作を予言して不安を解消する妖怪が象徴としてはやりました。

いったい日本にはどれぐらいの妖怪や鬼がいるのか。私たちは長年かけて調べました。歴史書や研究者の資料などにあたり、地方によって呼び名が違うものも含めると4万近くなります。少なくとも3万5千件の情報が集まり、日文研の「怪異・妖怪伝承」のデータベースとして公開しています。

日本と海外の違いを知れば知るほど、日本文化の多様性に改めて気付かされます。それは「異形の他者を理解したい」という人間の課題の表れでもあるでしょう。

ポンナップ島の体験は、実は日本文化を考える時のモデルをもらったと思っています。自分の内面にある日本文化が絶対だとは思わなくなりました。その思考法は今でもとても役に立っています。

1997年、当時所長だった河合隼雄さんに誘われ、国際日本文化研究センターに当時勤めていた大阪大学から移る。

河合さんからは「思う存分妖怪の研究ができるよ」と言われましたが、管理職の仕事に追われっぱなしでした。ただ日文研時代の23年間で、国内では「ポケモン」や「妖怪ウォッチ」など妖怪ブームが続き、フランスやアメリカでも「日本の妖怪展」が開かれるようになりました。当初は妖怪研究と言うと笑われたものです。今では私の著書が教科書にも載っています。

鬼がはやるのは、不安が多い証しですから素直には喜べません。実際に世界情勢は混乱を極め、誰もが疑心暗鬼になっています。コロナが収まっても、外国人労働者にヘイトが向かうかもしれない。それを避ける知恵が必要です。

東日本大震災から11年となる3月に、東北は再び強い揺れに襲われた。首都直下地震や南海トラフ地震など、この先も災害は来る。

災害や疫病は制御できない災いです。江戸時代にはこうした災いを落語に取り入れていました。時には話の中で人間を鬼役に仕立て、それを笑ってみせた。それは差別的な面もあったけれど、芸能の中で浄化し、不安のガス抜き装置として機能させていたわけです。生身の人間の中に鬼探しをして排除しないための知恵でもありました。

ところが現代は芸能やアニメの中でさえ、コンプライアンスの壁があります。言葉使いも表現も厳しくなった。裏社会の興行師と芸能の世界は、もともと世間からはじかれた異質な者の受け皿でした。本来が鬼役なのです。しかし、吉本興業もコンプライアンスと言っています。大衆文化の中で鬼役を立ち振る舞い、カタルシスの笑いを披露する道は狭くなった。一方でSNS(交流サイト)では、とんでもない匿名の差別があふれています。

実は人間が鬼になってカタルシスを得る遊びが今もあります。例えば鬼ごっこ。鬼になるとみんな自分から逃げていく。誰もが代わる代わる鬼になることで、鬼にされる気持ちもわかります。

あるいは逆に、鬼を人間の社会に迎え入れることで共生する知恵もあります。例えば「泣いた赤鬼」の話。異形の鬼でも、付き合ってみれば怖くなかった。仲良くなれば鬼ではなくなる。そういう知恵を私たちはずっと取り入れてきたのです。

ビートルズの「ノーウェアマン」がお気に入りだ。

「ひとりぼっちのあいつ」という邦題ですが、「どこにも属さない人」といった意味です。私の研究は孤独で少数派でした。どこにも属さず、自分の居場所がわからないと不安になります。それでもジョン・レノンは「心配いらない。じっくりやろう」と語りかけます。異形の他者に優しい。人間は嫌いだけど妖怪や鬼なら付き合えるという孤独な人は、たぶんこの曲を気に入ると思います。

人に鬼のラベルを貼った瞬間、自らにも鬼が宿ると警鐘を鳴らす

最近、根本的な疑問を持っています。文化人類学を学び、異形の他者を見て「多様性がいい」と言いながら、実は「自分の方が上だ」という差別意識を身につけてしまうことがあるのではないか。そんな疑問です。日本文化を海外に広める専門家の中にさえ、アジア人を見下す視線がある。多様性や共生を目指しながら、自分の心に鬼を育てている面があるのではないか。

だから怖いのです。常に心に鬼が育たないように意識しないと、フッと鬼に誘惑されそうな気がする。人に鬼のラベルを貼った瞬間、自分の心にも鬼が宿ります。相手の邪悪を排除すれば自分が邪悪になる。集団で鬼探しをすれば魔女狩りになる。国が互いに鬼と見れば戦争になります。

だからこそカタルシスを物語に求め、異質を楽しむ知恵が必要です。人工知能と共生する時代になっても、鬼や妖怪は生まれるでしょう。メディアは変われど、物語を紡ぐ人間がいる限り、鬼文化の役割は変わらないと思います。

(大久保潤)

 


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