東京大学名誉教授
Nikkei Online, 2024年8月26日 2:00
安倍晋三首相のもとで、いろいろな仕事をした。2006年の第1次政権では国家安全保障会議の設計に加わり、石原信雄座長、塩崎恭久官房長官、小池百合子国家安全保障担当首相補佐官と議論を進めた。首相の病気退陣で実現に至らなかった。
12年に発足した第2次政権は再び、この課題に取り組んだ。私はそこには加わらず、代わりに国家安全保障戦略の策定にかかわった。
そもそも日本には統一的な外交安全保障戦略があったことがなかった。帝国国防方針は1907年(明治40年)から4回作られたが、軍と外務省、陸軍と海軍の対立を克服できなかった。戦後は57年に国防の基本方針が定められたが、あまりに簡潔で、内容もほぼ時代遅れとなっていた。
そこで私を座長とする有識者会議を設け、首相や閣僚と一緒に議論を重ねて、2013年に国家安全保障戦略を作った。まず国益を定義した。いかなる国家の国益も、その国の安全と繁栄と自由とを守ることであり、ただ、その国の位置と時代で具体的な方針は変わってくると述べた。
その上で、日本にとって最も重要なのは、紛争が平和的に解決され、貿易が自由に行われる国際協調体制を維持することだとした。こうした国際秩序の維持のために積極的に行動する、積極的平和主義が必要だとした。この戦略の成立は画期的だったと思う。
もう一つの重要な仕事が、安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)である。第1次内閣でも試みられ、提言まで出したが、内閣総辞職とともに棚ざらしとなっていた。第2次内閣の発足により、ほぼ同じ顔ぶれで再出発した。柳井俊二座長がドイツにある国際海洋法裁判所の所長になられたため、座長代理の私が取り仕切った。
私たちの立場は明確で、主権国家である以上、自衛のための必要最小限度の自衛力を持つのは当然であるとまず考えた。1954年以来の政府見解と同じである。しかし、政府は72年頃から、集団的自衛権は必要最小限度の自衛を超えるので、行使できないという憲法解釈をとっていた。
これは誤りだと考えた。大国ならば単独で自国を守れるが、中小国は守れない。それゆえ他国と連携して守り合うのであって、その基礎が集団的自衛権である。集団的自衛権を保持し、行使することは必要最小限度の自衛の範囲内であり、その行使は憲法上可能だというのが、私たちの意見だった。安全保障や国際法の専門家からすれば普通の議論である。2014年5月、憲法解釈を改めるべきだと提言した。
国連平和維持活動(PKO)への参加は憲法によって制限されることはないとも指摘した。なぜならば、PKOに求められるのは「武器使用」であって、「武力行使」ではない。また、憲法9条1項で「国際紛争を解決するため」の武力行使は禁止とあるが、これは日本を当事者とする国際紛争のことであって、PKOにおける武器使用は、9条の禁じるところではないからである。邦人救出にも憲法上の制約はないと考えた。
提言を基にして、安倍首相は集団的自衛権の行使は部分的に可能という憲法解釈を7月の閣議で決定した。 翌15年、野党の猛烈な反対を乗り越え、新解釈に基づく平和安全保障法を成立させた。
同法は私たちの提言のごく一部を採用して実現したにすぎない。 それでも、私からすれば、1992年に読売新聞社の憲法問題調査会に参加して以来、取り組んできた集団的自衛権の一部解除がようやく行われたのである。満足して、安堵した。