Nikkei Online, 2024年6月3日 2:00
「円安は日本経済にプラス」というデフレ時代の呪縛が歴史的な円安を生んだ。
物価・賃金が上がり始めた今こそ、成長モデルを描き直す好機だ。
「放っておくと英イングランド銀行(中央銀行)が直面したポンド危機と同じになる」。
首相秘書官の一人は4〜5月の大型連休中に一時1ドル=160円台と約34年ぶりの円安水準に急落した円相場を見て通貨危機を連想した。
日銀の植田和男総裁が4月26日の記者会見で、円安が物価に与える影響は無視できるかと聞かれ「はい」と答えて以降、円売りに歯止めがかからなくなっていたためだ。
岸田文雄首相は連休明けの5月7日に植田氏と面会し、発言を修正させた。政府側は、植田氏が8日に講演をする予定があり、発言を修正する機会になるとみた。
面会は当初、岸田氏が外遊から帰国した6日に実施する案もあった。「祝日の6日に面会すれば、かえって市場を驚かせる」と翌日に先送りとなったが、首相の切迫感が強かったことを物語る。
宮城県富谷市。小中学校およそ5800人分を調理する給食センターでは、献立から栄養価が高い牛肉が消えた。コメや牛乳がそれぞれ9%値上がりし、牛肉は1食300〜360円の予算に収まらなくなった。
「これまでのように献立がつくれない」。栄養士の蛇子(じゃこ)彩さんは嘆く。
米国産牛肉の国内卸値は1991年の輸入自由化後の最高値に上昇した。輸入牛肉の買い付け業者は苦戦する。5月、双日食料の小穴裕さんが調達先となる米国の生産者からのメールを開いた。「ディスカウントは難しい。円安は日本側の問題だ」
米給与比較サイトlevels.fyiによると、東京では2023年末のIT(情報技術)関連のエンジニアの年収(中央値)がドル換算で6万2530ドルとなった。
米サンフランシスコ湾岸地域の約4分の1で、シンガポールや北京に比べても約3割低い。国際的に通用する技能を持つ人が日本で働く動機は弱まっている。
4月に東京工業大学が稼働を始めた最新のスーパーコンピューターが円安のあおりを受けた。「半導体不足や円安によって設置が困難になりかけた」(伊東利哉教授)。スパコンをリース契約に基づいて設置しており、年間リース料は当初想定の7億5000万円から10億円と3割増加した。
防衛分野では、最新鋭ステルス戦闘機「F35A」を24年度予算で1機140億円として計上した。取得計画では116億円だったものだ。航空自衛隊が使う「C2」輸送機も230億円を見込んでいたのが23年度の平均単価は297億円に膨らんだ。いずれも部品などを米国から調達しているためだ。
防衛予算は27年度までの5年間で総額43兆円だが、ドル換算は22年の計画策定時に比べ3割目減りした。
日本経済はもう円安に頼る段階ではない。輸出によって稼ぎ、成長の源泉にするという経済モデルから「卒業」している。経済学者ジェフリー・クローサーが唱えた国際収支の発展段階説に基づくと、10年代から海外からの利子・配当で貿易赤字を埋める「成熟した債権国」に転じた。円安になっても輸出数量は増えず、貿易赤字は定着しつつある。
少子高齢化によって稼ぐ力が弱まれば、最終段階の「債権取り崩し国」が迫る。経常収支が赤字になれば、海外勢に国債購入などを依存することになり、国債の安定消化に懸念が生じかねない。
門司税関がまとめた九州経済圏の貿易統計をみると、全国の収支が9兆円強の赤字に陥るなか、23年は4946億円の黒字を確保した。00年以降で貿易赤字に転じたのはリーマン危機によって急速な円高が進んだ08年や、東日本大震災後に原子力発電所がすべて停止していた11〜14年など7回にとどまる。
九州には自動車大手の製造拠点が集まるうえ、熊本に工場を設けた半導体受託生産の世界最大手、台湾積体電路製造(TSMC)を中心とした製造網が生まれつつある。
製造業の集積には電力の安定供給が欠かせず、一翼を担うのが原発の稼働だ。九州電力は原発を鹿児島・佐賀両県に計4基持ち、22年度の電源構成に占める原子力の割合は23%と全国(6%)を大きく上回る。
九州とほぼ同じ面積のスイスは貿易黒字を00年代以降に拡大させた。同国は物価水準や人件費が高いことで知られるが、化学・医療品を中心に高付加価値の製品を生み出す企業を育て、新たな産業構造を構築した。
1992年にポンド危機に陥った英国は、移民規制や投資規制の緩和を進めた。産業革命を最初に成し遂げた資本主義の老舗は、外国から人とマネーを呼び込んで経済成長につなげた。
少子高齢化が加速し、国内市場は縮小の一途をたどる。国内企業さえ成長の果実を求めて海外への進出を進めるなか、いかに投資マネーを呼び込む独自の成長モデルをつくれるか。現在進行形の円安は、将来世代を含めた国富を考えるうえでの警告といえる。