「首相の権力」一線越えた結末

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Nikkei Online, 2021年9月11日 4:00


首相官邸で取材に応じる菅首相。
自民党総裁選への不出馬を表明した(3日)

見たことのない無残な菅義偉首相の退陣劇である。 衆院解散権と閣僚・自民党役員の人事権という「首相の権力」。 伝家の宝刀を目前の与党党首選挙をしのぐという「私」「個」のために抜くのは、一線を越えた禁じ手だった。 組織運営のガバナンスは融通むげで、権力闘争となれば何でもありの自民党も最後は総出で止めにかかった。

安倍晋三前首相、伊吹文明元衆院議長、甘利明党税調会長、小泉進次郎環境相――。8月31日夜、剣が峰に立つ首相が総裁選を先送りし、9月中旬に衆院解散・総選挙に動くとの観測が流れると、党内実力者も大ベテランも盟友も若手も解散だけは阻止しようとして首相に接触。雪崩を打って動いた。

首相は9月1日朝に早期解散の全面否定を余儀なくされる。9日の記者会見で「解散の様々なシミュレーションをしたのは事実だ」としたうえで、新型コロナウイルス対策の緊急事態宣言解除前の決断は難しかったと述べた。

党内が首相は本気だと慌てる素地はあった。首相は総裁選前に解散・総選挙に動く意欲を何度も公言してきたからだ。6月17日の記者会見では「私の(総裁)任期もこの秋で決まっているから、それまでのどこかでタイミングを見たかたちでそうしたこと(解散)は判断しなければならない」と述べた。

この頃は東京五輪・パラリンピック閉幕直後の9月中旬の解散が、メインシナリオとして党内で織り込まれていた。ただ、当初からリスクがあった。首相の総裁任期は9月30日まで。公選規程では、8月中に総裁選日程を決める定めだ。その後に解散して総裁選を先送りするのでは、任期延長の党則改正など手続きを踏まない限り、政党ガバナンスとして説明がつかなかった。

首相を支えた二階俊博幹事長は「9月17日告示―29日投開票」の総裁選日程を描きつつ、8月3日の会見で「複数候補が出る見通しは今のところない」と告示日に首相の無投票再選が決まるとの期待感を示した。無投票再選して直ちに解散する一手はありえた。 だが、7月以降の内閣支持率は30%台前半に下落し、党内はガタつき始めた。

首相は8月17日、新型コロナウイルスの感染拡大で、首都圏などの緊急事態宣言を9月12日まで延長した。9月中旬の解散の余地は狭くなった。8月22日、お膝元の横浜市長選で最側近の小此木八郎氏が惨敗すると、「選挙の顔」としての首相の威信は失墜した。

逆風に焦る若手議員から「党員投票も含めルール通りの開かれた総裁選」で党の再生を図れ、と声が強まる。 自民党が総裁選日程を決めた26日。 岸田文雄前政調会長が出馬会見し、事実上の「二階更迭」を宣言して勢いづいた。 実質的に総裁選の号砲が鳴ったこの瞬間、首相の命脈は尽きかけていた。

首相は30日、岸田案を潰そうと総裁選前の二階氏ら党役員の人事刷新を決めた。 河野太郎規制改革相らを抜てきするなら「首相の権力」たる閣僚人事も動かす必要がある。 さらに解散論まで政権中枢から漏れ出た。 幕を開けた総裁選を形勢不利と見て、ルール通り戦わず吹っ飛ばす。 そのための行きすぎた権力行使だと受け止められた。

「自民党、何はなくとも総裁選」(政治学者の佐々木毅東大名誉教授)と皮肉を込めて語られる。 危機に権力闘争の「祝祭」総裁選を派手に演出してみせ、国民の批判をそらすのはいつもの苦肉の策。 それすらぶち壊す菅流の極端な権謀に協力は得られなかった。


小泉純一郎首相は郵政民営化など政策への
支持を求めて自民党総裁選で圧勝した(2003年9月)

2003年。当時の小泉純一郎首相も厳しい総裁選に直面していた。 後見役の森喜朗元首相は事前の内閣改造による挙党体制を説き、盟友の山崎拓幹事長は早期解散による総裁選潰しを助言した。 菅首相を取り巻く状況にもよく似ていた。 ただ、小泉首相は両者とも「首相の権力を分かっていない」と退けた。 「総裁選→内閣改造→解散・総選挙」の順でカレンダーを組み、郵政民営化を公約に掲げて中央突破した。

国民向けの発信力が抜群で、内閣支持率が高かった小泉首相は「選挙の顔」は自分しかいないと確信があった。 だから、人事権と解散権は総裁選の後ろに置いて見せ、政策の旗印に支持を求めて勝ち切った。 言葉も旗印も乏しく、支持率が低迷した菅首相のむき出しの権力行使。 身を引く選択を進言したのは、小泉進次郎環境相だった。

[日経ヴェリタス2021年9月12日号より]