Nikkei Online, 2023年9月9日 2:00
危機は突然やってきた。1990年8月、官房副長官に就いて以来、初めての休暇をもらい、妻の実家がある大阪にいた。その日は義父とのゴルフだった。
フロントに電話が入った。イラクがクウェートに攻め込み、多数の邦人が拘束されたとの一報だった。直ちに首相官邸へと向かった。軽井沢で静養中だった海部俊樹首相もすぐ戻ってきた。
湾岸危機というと、資金援助と人的貢献の話になることが多いが、発生直後の最大の関心事は邦人の救出だった。イラクは8月末、200人を超す邦人をクウェートからイラクに移して人質にした。
海部さんは「人道上も国際法上も許されるものではない」との談話を出したが、打つ手がないのが正直なところだった。私はクウェートから帰国したばかりだった大学時代の友人に事情を聞くなど情報収集に努めた。
中曽根康弘元首相が11月にバグダッドを訪れるなど、さまざまな働きかけをし、全員の解放にこぎ着けたのは12月だった。
その間にも米国からはそれはそれは激しい口調の要請や意見が来た。ブッシュ大統領は日本の事情をよくわかっていて「憲法の許す範囲内で」とは言ってくれた。それでも「中東の石油の7〜8割は日本が輸入している。そこへ米国の若者が向かっている。日本はどういう役割を担えるのか」との厳しい問いである。
国際平和のために日本は何ができるのか、何をすべきなのか。経済成長至上主義の中で、この重要な課題を議論しないできた戦後の大きな宿題が我々に向かってきた。
米国は国連決議に基づき、主要国と一緒に多国籍軍を編成し、武力によるクウェート解放を辞さない姿勢を鮮明にしていた。日本は8月と9月に多国籍軍の活動への資金協力として10億ドルずつ、加えて9月に周辺国への経済援助20億ドルを拠出した。
米国は満足せず、輸送などの後方支援も求めてきた。人的貢献となれば、対応能力などからして自衛隊の方々に行ってもらうしかない。自衛隊の海外派遣でも国連の集団安全保障への参加であれば憲法が禁じる「国権の発動たる戦争」に該当しない、というのが自民党の小沢一郎幹事長の考えだった。
だが、三木武夫元首相のまな弟子で、現憲法の平和主義を重んじていた海部さんは自衛隊の海外派遣に抵抗感があった。首相官邸での会議で、自らが創設にかかわった青年海外協力隊を引き合いに「ああいうものを考えられないか」と発言した。
調整は難航を極めた。特別職公務員である自衛隊員の身分を、一般職公務員である外務省職員に移す案などが出たが、防衛庁は自衛隊とは別の組織の形で自衛官を派遣するのには絶対反対だった。高度な政治判断が必要な局面だったが、海部さんは中東訪問の予定があった。
留守中、すったもんだのすえに自衛官を総理府職員との併任にし、形の上では自衛隊派遣にしないことで決着させた。だが、10月に始まった臨時国会における国連平和協力法案の審議ははかばかしく進まなかった。海部さんは心の底では併任に納得していなかったのだろう。答弁に迫力が感じられなかった。
武器携行、指揮監督権などの論点を野党に突っ込まれ、法案は廃案に終わった。91年1月、多国籍軍が武力行使に踏み切り、湾岸戦争が始まった。人的貢献ができない私たちは90億ドルの追加資金援助をした。