科学揺らす「知の保護主義」 

文明の進歩、停滞の恐れ

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Nikkei Online, 2020年12月24日 11:00


新型コロナ対策など人類共通の課題では国家の
枠組みを超えた科学の連携が必要だ=ロイター

科学や知識は誰のためにありますか――。

ダ・ヴィンチ、コペルニクスらの才能を生んだルネサンス期。欧州では天文学、医学などが発達し、17世紀の科学革命への道を開いた。支えたのは宗教の教義からの解放だ。人間らしさを追求し、イスラム世界の知識も貪欲に吸収した。

ルネサンス前の中世には考えられない光景だった。キリスト教に反するような自然科学の研究は停滞し、当時の科学の中心だったイスラム世界とは断絶。「暗黒の西洋」と呼ばれる時代だ。

現代も科学研究に暗い影が忍び寄る。「データを中国の研究機関に持ち込むつもりか」。7月、米ボストンの空港の搭乗口で、ボストン大の大学院で研究していた中国籍の張平さん(仮名、26)は突然足止めされた。パソコンを探り始めた職員は計算化学の研究データを見つけるや単語や数字を一つ一つ指さし、説明を求めた。

2時間の押し問答を経て搭乗できたがパソコン類は没収された。「政治が学問を妨害するなんて」と張さんは憤る。米政府の中国人研究者への警戒には理由がある。

中国人民解放軍の関与を隠して航空宇宙工学の教授のもとに留学し、研究上の秘密を盗もうとした――。米連邦捜査局(FBI)は全米の大学関係者宛ての資料で複数の事例を挙げ、「米国の開かれた研究環境を外国勢力は食い物にしようとしている」と警告した。

中国との経済関係を重視してきた欧州も姿勢を変えつつある。欧州連合(EU)が21年から始める7カ年の研究開発戦略「ホライズン・ヨーロッパ」。第三国の管理下にある組織がEUの研究促進策に参加するのを「排除、もしくは制限することがある」と明記した。中国による介入阻止を意図したものとみられる。

中国の研究開発費は2000年代に欧州主要国や日本を上回り、世界一の米国に迫る。成果は有力科学誌に掲載される論文で、引用数で上位1%に入る「トップ論文」の国別シェアが物語る。学術データの英クラリベイトによると、00年に50ポイント以上の差があった米国との差は19年に5ポイントまで縮小。20年は新型コロナウイルスの研究論文の急増もあり、米国を初めて抜く公算だ。

現状は中国への警戒から「知の保護主義」の色彩が強まる。世界の頭脳を集めてきた米国では国務省が9月、中国の人民解放軍との関与が疑われる研究者・留学生1千人のビザを剥奪したと公表。米国で研究する留学生の数は20年春時点で前年比2%減った。前年割れは14年ぶりだ。米国は研究の分野でも世界に「壁」を築きつつある。

「人類は大きな変革の入り口に立とうとしている」。次世代の高速計算機などに使われる量子技術が開花し始めた現状を、情報通信研究機構の佐々木雅英フェローはこう例える。量子分野でも国境を越えた研究者の交流は盛んだったが近年は状況が一変。米中をはじめ国家間の競争が激しくなった。人材交流に制約がかかり「研究速度が鈍りかねない」と懸念する。

国家が国力を競い知の発展を支えてきたのは事実だ。だが保護主義が過ぎれば、人類共通の課題に立ち向かえなくなる。新型コロナや気候変動など課題が山積する今、科学の停滞は許されない。


 「パクスなき世界」取材班 大越匡洋、加藤貴行、上杉素直、島田学、押野真也、生川暁、高橋元気、江渕智弘、竹内弘文、大島有美子、松浦奈美、篠崎健太、鳳山太成、奥田宏二、佐伯遼、北川開、清水孝輔、中野貴司、前田尚歩、熊田明彦、天野由衣、塩山賢、森田英幸で構成しました。