沈下する中間層 不安のマグマ、世界揺らす

パクスなき世界 自由のパラドックス(2)

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Microsoft News, 2020年10月26日 11:00

今の自由は豊かさにつながっていますか――。

「1万年前の農耕社会の開始以来、初めて世界人口の過半数が貧しさから脱した」と米ブルッキングス研究所が宣言した2018年。民主主義を育んだ先進国では中流がすでに地盤沈下していた。1970年代に6割を占めた米国の中間層は5割程度に細った。

コロナ禍はその沈下を早める。国際労働機関(ILO)によると、1~9月の世界の労働所得は前年同期比10%減、金額換算で3兆5千億ドル(約360兆円)減った。

タイの首都バンコクでは7月から反体制デモが続く=ロイター

新興国の優等生タイ。4~6月期の実質国内総生産(GDP)は前年同期比12.2%減とアジア通貨危機の1998年以来の落ち込みだった。首都バンコクでは7月から反体制デモが続く。「経済はひどい。政府に国を統治する能力はない」。デモに参加した男性会社員のパニタンさんは富裕層に富が偏る構図が強まっていると懸念する。

「自由な市場経済では必然的に富の集中が起こる」。数学者ブルース・ボゴシアン氏は19年の科学誌で、究極的には富が1人に集中することを数理モデルで立証できると指摘した。大量生産のために雇用を増大させた製造業中心の20世紀までの経済は自由な競争が労働者に富をもたらした。

経済のデジタル化がその循環を断った。同じく自由に基づくのに、データやアイデアを独占する巨大IT(情報技術)企業は多くの雇用を必要とせず、市場を支配する勝者総取りを実現した。

大多数がそこそこに満足する分厚い中流階級の存在は各国の自由と繁栄の礎だった。政治的には幅広い穏健な中道層と重なり、世論が極端に振れるのを防いできた。経済の構造変化はそんな社会の安定装置を崩した。

民主化で豊かになるとの期待はかすむ。ドイツのベルリンの壁崩壊から30年たった19年。米ピュー・リサーチ・センターの調査で旧東独の74%の人が「旧西独の生活水準に届かない」と答えた。

政治家も戸惑う。支持を広げるため有権者の多い中道の取り込みを競ってきた。今では分散化する有権者の関心をうまくすくえなくなった。

政治学者のフランシス・フクヤマ氏は14年の著書で民主主義の未来は「中産階級の衰退という問題を解決できるかにかかっている」と主張したが、現実は逆に進んだ。

米スタンフォード大の研究者らは17年、1940年に生まれた米国人の9割が親より豊かになったが、80年代生まれではそれが5割にとどまると指摘した。16年の米大統領選では低所得層ほど投票率が低く、世帯年収が15万ドル以上と1万ドル未満で40ポイントほどの差がある。

低所得層など政治的に沈黙してきた有権者はマグマのように不満をためる。大統領選を控える米国で人種や差別をめぐる衝突が続くように、いったん不満に火が付けば政治も社会も一気に不安定になりかねない。

米司法省は10月、反トラスト法(独占禁止法)違反の疑いで米グーグルを提訴した。選挙前の思惑が絡むとしても、新たな経済への一つの問題提起であるのは確かだ。

中間層を再生することも、製造業中心の経済に戻ることも、いまや現実味は乏しい。「新しい酒は新しい革袋に」。経済の激変に流されず変化そのものを御せば、あすの安定を創る好機となる。

 

 

キーワード「エレファントカーブ」


 世界の所得階層の分布を示す有名なグラフに、象が鼻を持ち上げる姿によく似た「エレファントカーブ」と呼ばれる曲線がある。横軸に世界の富裕層から貧困層までを並べ、一定期間に各階層がどれだけ所得を伸ばしたかを示したものだ。


 考案したのは経済学者のブランコ・ミラノヴィッチ氏らで、1988年からの20年間を対象にデータを分析した。

 グラフの右から、富裕層を示す鼻先は高々と伸び、主に先進国の中間層を指す辺りで急降下してくぼむ。新興国の中間層を含む領域になるとグラフは大きくせり上がった背中を描き、最貧層を表す尻尾は垂れる。

 グラフから分かるのは収入の伸びで新興国が先進国の中間層を上回ったことだ。先進国では中・下位層を中心に、経済の停滞が長期化している実態も浮き彫りにした。

 新興国の繁栄は先進国からの製造拠点の移転といった経済のグローバル化がもたらした。これまでの製造業中心の経済から、デジタル化の進展で産業構造が変われば、グラフの形も崩れていく。

 巨大IT(情報技術)企業に、データやアイデアとともに富も偏在していく動きは止まらない。今年に入って世界を襲った新型コロナウイルスはその流れを加速する。

 多くの階層が収入を減らした。世界銀行は10月、極度の貧困層が20年ぶりに増えるとの報告書をまとめた。他方、超富裕層の資産はさほど傷んでいないとみられる。

 「曲線の形は象から『頭をもたげたコブラ』へと変わる」。北海道大の吉田徹教授はコロナ後の新興国の成長鈍化で、中間層を表すせり上がった象の背中はなくなると指摘する。デジタル化による富の偏在と相まって、世界で二極化が進む。

 中間層は各国で、政治的には民主主義の担い手として社会を安定させる役割を果たしてきた。その層が地盤沈下し、不満が高まれば、社会の不安定さも増しかねない。