<<Return to Main
Source: Nikkei Online, 2023年6月7日 17:00更新
50年前、浦項製鉄所では100人ほどの日本人技術者が働いていた
今から50年前の1973年6月8日。韓国南東部の浦項(ポハン)市で同国初の一貫製鉄所が稼働した。国営浦項総合製鉄、後のポスコの1号高炉での「火入れ」だ。韓国は浦項製鉄所の鋼材によって社会インフラを整えて輸出産業を興し、「漢江の奇跡」と呼ばれる高度成長を先導した。ポスコ発足には日韓産業協力の原点とも言える技術者同士の交流があった。
その日、新日本製鉄(現日本製鉄)の浦項製鉄協力部の技術者だった小西敞氏(87)は祈る気持ちで高さ100メートル超の高炉を見上げていた。
火入れから24時間後、溶けた真っ赤な鉄が火花を散らして流れ出ると、300人余りの男たちから太い歓声があがった。汚れた作業服で抱き合い、万歳を繰り返した。涙を流す者もいた。誰かが韓国の愛国歌を歌い始め、小西氏ら日本人技術者らも一緒に歌った。
「あの光景は格別だった」。小西氏は今も50年前を思い出す。「技術者として満足いく仕事ができた。人生のハイライトだった」
浦項製鉄所の1号高炉稼働に日韓の技術者は歓喜した(1973年6月)=ポスコ提供
朝鮮戦争で荒廃した国土再建と、北朝鮮に対抗するために韓国政府は一貫製鉄所の建設計画を急いでいた。石炭と鉄鉱石に恵まれた北朝鮮では日本統治下で建設された製鉄所2カ所が稼働しており、韓国も「鉄源」が必要だった。
韓国は65年の日韓基本条約で得た5億ドルの経済協力資金のうち1億2000万ドルを製鉄所建設に充てた。日本の富士製鉄、八幡製鉄(ともに現日本製鉄)、日本鋼管(現JFEスチール)の高炉3社と技術支援契約を結び、多い時には100人ほどの日本人技術者が浦項で技術指導にあたった。
韓国側が欲したのは臨海一貫製鉄所。モデルは八幡製鉄の君津製鉄所(千葉県君津市)だった。鉄鉱石と石炭をばら積み船で運び込み、自動車工場など消費地の近くで鉄をつくる。効率を突き詰めた君津の設計思想を、浦項製鉄所は踏襲した。
1号高炉からの出銑を喜ぶ技術者ら(1973年6月)=ポスコ提供
一貫製鉄所の操業には多数の技師が必要だった。操業研修のために500人を超える韓国人技術者が来日した。八幡と富士が70年に合併した新日鉄の釜石(岩手県釜石市)、室蘭(北海道室蘭市)、広畑(兵庫県姫路市)、そして日本鋼管の京浜(川崎市)の各製鉄所が受け入れを担った。
受け入れ準備に奔走した新日鉄浦項製鉄協力部の中川豊氏(88)は「皆が日本語を勉強した上で来日し、韓国初の一貫製鉄所を絶対成功させるという強い使命感を持っていた」と振り返る。
ポスコ製鋼部門の鄭龍熙(チョン・ヨンヒ)氏(78)は日本鋼管の製鋼工場で操業を体得した一人。「製鋼炉も見たことがなかった我々に工場全体の操業まで任せてくれた。ものづくりの哲学など契約以上の大切なものを教えてもらった」と話す。
浦項製鉄所の稼働は韓国の産業構造を変えた。現代自動車やサムスン電子、LG電子の成長を支え、自動車や造船、家電、プラント設備といった輸出主導型の韓国の産業構造を形作った。
北朝鮮並みだった韓国の経済水準は輸出産業の成長とともに急拡大した。釜山大学の宋成守(ソン・ソンス)教授は「ポスコの稼働は韓国にとっての産業革命。軽工業から重化学工業への転換、そして半導体など新しい産業を生み出す原点となった」と分析する。
日本の設備産業にも恩恵があった。浦項製鉄所の建設プロジェクトは、三菱重工業やIHIなどの海外展開の先駆けとなった。
アジア経済研究所の安倍誠上席主任調査研究員は「設備メーカーにとって浦項製鉄所はその後の海外市場開拓に重要な役割を果たした」と分析。その一方で「日本の鉄鋼産業の競合を育てたのも事実で、功罪両面ある」とも指摘する。
日本人技術者の多くは「すべて吸収されれば強い競合になる」との疑問を抱きながら指導にあたっていた。熱延工場建設のため浦項に3年住んだ鷲田政昭氏(80)は「それでも自社の新入社員と同じように一人前に育てるのが仕事だと割り切っていた」と打ち明ける。
新日鉄は79年にポスコ協力の部署を廃止し、技術支援を取りやめた。ポスコは80年代に韓国南部に光陽(クァンヤン)製鉄所を整備。98年には粗鋼生産量で新日鉄を上回って世界首位に立った。
その後の世界的な再編と中国の躍進を経て、ポスコの2021年の粗鋼生産量は4296万トンで6位、日本製鉄は4946万トンで4位だ。首位の中国宝武鋼鉄集団(1億1995万トン)、2位の欧州アルセロール・ミタル(7926万トン)が先行する構図となっている。
鉄鋼産業の荒波の中でポスコと新日鉄は00年に戦略的提携を結ぶ。アルセロール・ミタルの買収攻勢が強まると日韓の鉄鋼大手は共闘した。一方で10年代には高性能鋼板技術を不正に取得したとして新日鉄がポスコを訴えたこともある。
ポスコ歴史館には日本の技術支援についての記述がある
時に手を取り合い、時に厳しく競い合う――。両社の歩みは日韓の外交史にも重なる。
そして23年3月。元徴用工への賠償金を韓国政府傘下の財団が支払うと表明した際に、ポスコは真っ先に40億ウォン(約4億円)の寄付を表明した。韓国最高裁で賠償を命じられたのは日本製鉄。ポスコの寄付金拠出は、50年前の日本の資金・技術両面での協力と無縁ではない。
(ソウル=細川幸太郎)
浦項製鉄所の建設に奔走した日韓の技術者らに当時を振り返ってもらった。
稲崎宏治さん(80) 彼らの力にならなければ
ポスコには韓国のエリート人材が集められており、物事を理解し判断する能力の高さに驚かされた。彼らも死ぬ気で技術を吸収しようとしており、その姿勢に我々も心打たれて強いやりがいを感じていた。
正直に言えば、技術協力には韓国への贖罪(しょくざい)の意識もあった。戦後すぐの日本には朝鮮半島にルーツを持つ在日朝鮮人が大勢残っており、多くの日本人が彼らを虐げていた。その理不尽な扱いに小学生の私は後ろめたさを感じていた。私より上の世代には、彼らの力にならなければいけないという意識があったと思う。
1970年代の韓国の給与水準は日本の10分の1程度。ポスコ稼働後にこれほど急速な経済発展を遂げるとは思わなかった。韓国の製鉄技術者たちの努力が土台になった。
私の圧延計算機制御の技術支援が終わった後も個人的な交流は続いた。担当係長だった李善鍾さんとは10年後にソウルで韓国焼酎を酌み交わした。彼らとの交流は私の人生の宝物になった。もう一度会って昔話をできればと願っている。
李善鍾(イ・ソンジョン)さん(78) 民族の血の代償、命懸けた
1971年の入社前には3カ月間の日本語研修が必須だった。入社後にその意味がすぐわかった。あらゆる技術資料が日本語で書かれ、日本での1年間の操業研修が待っていたのだ。
浦項製鉄所の立ち上げメンバーは皆が「製鉄報国」の精神を持っていた。製鉄所の建設費に充てた日本からの経済協力資金は、民族の血の代償として得たもの。命を懸けてやり遂げる、という切迫感があった。
我々は新日鉄の技術者から製鉄所建設、設備操業まで勉強させてもらった。コア技術は外部に任せず、自社内で抱えるという哲学は今も生きている。浦項での蓄積が光陽製鉄所につながり、ポスコの躍進を導いた。
日本の技術者は我々が理解できるまで議論に付き合ってくれた。熱延設備のコンピューター制御技術を教えてくれた稲崎宏治さんは本当の先生だった。50年たった今も元同僚が集まると、稲崎さんら日本人の話が出る。韓国焼酎を飲んで騒ぎ、濃密な時間を過ごした。我々、日韓の鉄鋼マンにはそんな時代があった。
日高幹雄さん(88) 国内批判が仲間意識生んだ
浦項製鉄所の企画・仕様決定・建設を担った。当時は30代後半で働き盛り。世界に誇れるいい製鉄所をつくりたいという一心で取り組んだ。
ただ、僕らの仕事に日本の社会は否定的だった。ベトナム戦争が連日報道されていたこともあり、韓国の軍事独裁政権に技術支援しているとしてマスコミからも批判された。当時は褒められたことなんて一度もなかった。
まだ貧しかった韓国で発展の礎となる製鉄所をつくりたい、私にそう思わせてくれたのは国を背負っているポスコ技術者の熱意だった。日本での「韓国に一貫製鉄所は無理だ」といった声に対して、新日鉄とポスコの技術者はともに見返してやりたいと感じていた。それが仲間意識にもつながった。
1988年5月にポスコは我々を韓国に招いてくれた。歓迎会でポスコ幹部は「先生たちのおかげで韓国は五輪が開けるほど豊かになりました」と話してくれた。私を含め20人ほどの招待客は心から「役立ててよかった」としみじみと感じた。
鄭龍熙(チョン・ヨンヒ)さん(78) 研修での粋な計らい、
深い義理
大学で冶金学科を出た私は1972年に製鋼部門に配属され、入社半年で日本鋼管の川崎市の製鉄所に向かった。初めて見た溶けた鉄は太陽のように輝き、畏敬の念を持った。1901年に官営八幡製鉄所を稼働させた日本との70年の技術差を感じたことを強く覚えている。
元住吉(川崎市)にあった独身寮から毎日、製鉄所に通った。不慣れな日本語での生活は大変だったが、つらいと感じる余裕もなかった。
川崎の焼肉店の在日韓国人の店主は「祖国にすばらしい製鉄所をつくってください」と激励してくれた。日本各地の製鉄所に散った研修生は皆、国家のためという強い使命感を持っていた。
研修の終盤、製鋼工場長が突然「お前たち、全部自分たちでやってみろ」と告げた。研修とはいえ自分たちの工場操業を部外者に任せるなんて考えられないこと。1週間、我々に操業を託してくれた。とにかく感激した。我々製鋼部門は日本鋼管に、そして日本の鉄鋼産業に深い義理がある。
佐竹忠さん(80) 技術移転は止められない
ポスコへの技術支援が決まった時、やがてポスコが新日鉄の手ごわい競合となる「ブーメラン効果」の懸念はあった。室蘭製鉄所の幹部は「新日鉄は技術力を磨き先行する、だから心配するな」と言っていた。
ポスコの技術者を招いた操業研修の際には、マニュアルは見せてもいいがコピーは禁止というのが原則だった。ただ「聞かれたことは何でも答えていい、日本人として恥ずかしくない対応をしろ」とも言われていた。
浦項製鉄所に派遣された時、新日鉄の資料があった。誰かがコピーして持ち込んだのだ。個人的には与えすぎたかもしれない、とも感じていた。
1980年代に入ってポスコの鋼材がどんどん日本に輸入され、光陽製鉄所が稼働した頃にはコスト競争力で太刀打ちできなくなっていた。その一方で、日本が技術支援しなければドイツなど他の国が支援していただろう。技術移転は止められない。
95年に浦項製鉄所を再訪した。韓国人のガイドさんが「この製鉄所が韓国の経済発展の原動力となりました。皆さんは韓国の恩人です」と話してくれた。一般の人たちも我々が情熱を注いだ仕事を評価してくれた。その言葉はずっと心の中に残っている。
中川豊さん(88) 技術は人類を豊かにするため
浦項製鉄協力部で韓国人技術者の技術研修の受け入れを担った。私が直接会った400人ほどのポスコ技術者は皆、日本語が堪能で何としても技術を習得しなければというハングリー精神に満ちていた。
1990年代に光陽製鉄所を見学する機会があった。事務棟で製鉄所の全体を模型で解説してもらった後、「では本物をご覧ください」との掛け声があってカーテンが開いた。製鉄所が一望できる部屋だった。ただただ圧倒された。ポスコの躍進に喜びを感じた半面、日本をしのぐ巨大製鉄所を目の当たりにして劣等感に似た複雑な気持ちもあった。
韓国への技術協力について「敵に塩を送った」と言う人がいる。ただ、日本の製鉄技術も元は欧米から習ったもの。技術は人類を豊かにするためのもの。共有して全体が底上げできればいい。
2018年のポスコ創立50周年の時に感謝状と記念品が突然自宅に届いた。我々が紡いだ日韓協力の歴史をポスコも覚えてくれている、それが何よりうれしかった。