ゴッホ 新イメージ
芸術思想史家 木下長宏
Nikkei Online, 2020年6月30日
(10)「麦の穂」
フランスの麦畑は、地平線の彼(か)方(なた)まで広がっている。そんな広大な麦畑の一部を切り取った絵を、ゴッホはオーヴェルで描いた。
麦の穂と葉だけの絵。いちめん緑。前景も後景もない。すべて前景であるし、すべて背景と言ってもいい。しかし、緑をやたらと塗りつぶしているわけではない。
麦の穂や葉や茎が、一本一本ていねいに描き込まれている。穂は黄味(きみ)を帯び、緑に濃淡をつける。それぞれの穂、葉、茎には、濃い藍が添えられ、葉叢(はむら)の深みが感じ取れる。風の騒(ざわ)めきが聞こえる。まっすぐな茎と、てんでに曲線を描く葉は、まるで音符のようだ。
「これは、緑色全体で一つの絵となる、緑の変奏曲、一つの色価の変奏なのです」とゴーギャンへの手紙に書いたほど、ゴッホにとって手応えのある作品となった。
アルルで見つけた「草の芽の研究」は、彼の画家人生を貫くテーマであり、さまざまな試みを重ねて、この「麦の穂」が生まれた。
まるで自身が麦の穂となって、風に身を任せているゴッホがここにいる。小さな風景のひとこまだが、眺めていて飽きない。
この絵からゴッホという画家の未知の豊かさに出会うことができそうだ。
(1890年、油彩、64×48センチ、ファン・ゴッホ美術館蔵)