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ゴッホ 新イメージ

芸術思想史家 木下長宏

Nikkei Online, 2020年6月26日

(8)「サン・レミ施療院の庭」

一途に空へ手を伸ばす糸杉を描きながら、彼は「草の芽の研究」のことを忘れない。樹を描く時、枝振りや枝の先は画面に入れないで、幹と根を見つめる描きかたが、だんだんと面白くなってくる。

樹の幹を描くということは、大地を描くということだ。大地の下には根っこが隠れている。草の芽が1本の樹木へと生長し変身するあいだ、変わらずこの植物を支えてきたのは根だ。

根は目に見えていないが、その根が確実に働いているような絵を描かねばならない。人々が何気なく眺めている病院の庭は、ゴッホには、哲学的課題と見えた。

この哲学を解くためにゴッホに必要なのは、構図と色彩と筆触(タッチ)である。画面左手前に立つ松の幹は太い筆触で、茶、紫、ピンクの絵具を塗り重ね、頑丈な根を暗示している。根元にタンポポの黄色が散らばる。垂直な幹に対して、草原を埋め尽す白い花が広がり、画面の奥の数本の幹とバラの植え込みへ視線を誘う。

この構図、じつは「星月夜」で描かれなかった前景、手前につながる情景である。空から大地へ視点が移動して、糸杉の幹は松に変った。

(1890年、油彩、72.5×91.5センチ、クレラー・ミュラー美術館蔵)