テクノ新世 もっと人間らしく(3)

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ぼくは「救世主きょうだい」
 兄のドナーとして産まれた

Source: Nikkei Online, 2024年6月19日 2:00

タイの首都バンコク中心部の高層ビルに入る医療機関スペリアー・エーアールティー。平日の昼過ぎ、6組の夫婦が深刻な面持ちで順番を待っていた。国籍はタイ、インド、中国、欧州。重い貧血を起こす遺伝性疾患「サラセミア」に苦しむ子供を助けたいとの思いで、世界中から足を運ぶ。

10万人に1人という難病を治すには、骨髄などに含まれる造血幹細胞の移植しかない。移植に適したドナー(提供者)を見つけるのは容易ではない。両親が望みをかけるのは、体外受精で「救世主きょうだい」と呼ぶ弟か妹を誕生させ、幹細胞のドナーにするこの病院だ。既に13人の救世主が産まれた。

命の選別に論争

タイ北部のランプーン県で暮らすダララットさん(39)は6年半前、夫のスパキットさん(51)と相談し、ドナーとなる第2子を産む決断をした。「どうしても長男を救いたかった」とダララットさんは語る。

弟のマーティンくん(5)が産まれたのは19年。幹細胞移植により兄のマジョーくん(9)の疾患は完治した。「治療がなければマジョーくんは5〜10年ほどで亡くなっていただろう」。取り組んできたコスタス・パパドポロス博士は意義を強調する。

「僕はお兄ちゃんのスーパーマンだね」。救世主きょうだいとして産まれた事実を両親から告げられたとき、マーティンくんはそう答えたという。

遺伝性の血液疾患を患っていた兄のマジョーくん(右)とドナーとして産まれた弟のマーティンくん(タイ・チェンマイ)=沢井慎也撮影

体外受精で数十個の胚からマーティンくんが選ばれたのは、免疫の型が合うからだ。適合しなかった胚は処分された。命の選別とも受け取られる治療には異論もある。誰かの役に立たなくても命は存在するだけで尊い、という生命倫理とも相いれない。日本ではこの治療は認められていない。

ヒトの臓器工場はブタ

肝臓や心臓を移植する治療が始まってから約60年。ドナー不足から治療を待ち続ける人はなお多い。生体移植では健康なドナーの体にメスを入れるという医療倫理の問題もある。それならばとブタをヒトの「臓器工場」にする研究も進む。

ヒトへの臓器移植を目指してクローンブタを研究する明治大学の長嶋比呂志専任教授(川崎市の明治大学生田キャンパス)

2月に関東近郊で産まれたのは、日本で初めてヒトへの臓器移植を目標につくられたクローンブタだ。見た目は普通のブタと変わらないが「移植時の拒絶反応やウイルス感染を防ぐために遺伝子を改変した」(明治大学の長嶋比呂志専任教授)。

ブタはヒトと臓器の大きさが似ており、移植に最適な動物と考えられている。ヒトへの応用を見据え、8月以降に産まれる別のブタの腎臓と心臓、膵臓(すいぞう)をサルに移植する。人工透析を受ける腎臓病患者は日本に35万人いるが、移植例は年2000人ほど。移植を待つ期間は15年程度と長い。

動物の臓器をヒトに移植する「異種移植」を初めて試みたのは20世紀初頭とされる。1964年には米国でチンパンジーの心臓を移植したが、患者は術後1時間で死亡したという。人類は拒絶反応や異種のウイルス感染などの課題をひとつひとつ乗り越えてきた。

米メリーランド大学は22〜23年、末期の心臓病を患う2人に、遺伝子を改変したブタの心臓を移植した。患者は術後6週間〜2カ月、命を永らえた。日本でもブタの臓器を移植する複数の臨床研究が数年以内に始まる見通しだ。

ヒトはブタなどの動物を食べ、命をつないできた。臓器も使える技術を人類が手に入れれば、多くの患者の福音となると同時に、生命倫理を巡る議論も呼ぶ。生きるとはどれほど利己的なのか。テクノロジーは人類に根源的な問いを突きつける。