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声がきこえる(2)「餓鬼草紙」(部分)

早稲田大学教授 山本聡美

Source: Nikkei Online, 2023/5/24~2023/6/07

人が集まる場所にはざわめきが生じる。平安時代末期に制作された「餓鬼草紙(がきぞうし)」には、庶民で賑(にぎ)わう寺の境内が描かれている。

門のそばに立つ僧侶の大きく開いた口から出た墨線は、念仏の声を表す。また画面右下の頭巾を被った尼僧の口からも墨線が伸びる。この場所に響いているのは仏を讃嘆(さんたん)する声、そして尼僧が手に持った鉦(かね)を叩(たた)く音。彼らは大寺院に属す者ではなく、平安中期に市中で念仏を勧め、市聖(いちのひじり)とも呼ばれた空也(くうや)のような民間宗教者。

集まった老若男女は、手に持った小さな袋からわずかな穀物を取り出して、塀に掛かる仏画の前、念仏僧の頭陀袋(ずだぶくろ)、尼僧らが座る筵(むしろ)の上に布施している。人々の表情は明るく、境内が社会のコモンズ(共有地)として機能していた一面も垣間見られる。

画面左方では、陀羅尼(だらに)(梵語(ぼんご)の呪文)を唱えながら浄水で卒塔婆(そとば)を供養する人々。そしてその背後から水を求めて忍び寄る3匹の餓鬼。人間には見えない闇の存在がこの場に不気味な不協和音を加えているが、中世の日本人は、この世界の一角に彼らの確かな気配を感じ取っていた。(12世紀、紙本着色、27.1×552.3センチ、京都国立博物館蔵)