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声がきこえる(7)「伊勢物語絵巻」(部分)

早稲田大学教授 山本聡美

Source: Nikkei Online, 2023/5/24~2023/6/07


名鏡 勝朗撮影

月やあらぬ春や昔の春ならぬ

わが身ひとつはもとの身にして

「伊勢物語」第四段に掲げられたこの歌は、やや遅れて編纂(へんさん)された「古今和歌集」に在原業平の歌として収められているため、古来、業平が現実に経験した悲恋を詠んだという解釈もなされてきた。恋の相手は、二条后(にじょうのきさき)こと藤原高子(こうし)。清和天皇の女御として貞明(さだあきら)親王を産んだ女性である。

地の文では、男が、今は手の届かない所にいるかつての恋人を想い、梅花が満開の正月にかつて彼女がいた館を独り訪れ、泣きながら、荒れた板敷に月が西に傾くまで横になり詠んだと記す。

月も春も昔通りではないのに、自分だけが取り残されたような夜。鎌倉時代に制作されたこの絵巻にはその寂寥(せきりょう)感が余すところなく描かれている。庭には金銀の箔をまき散らし月明かりを表現する。満開の梅花から、夜を包み込むような香りが立ちのぼっている。簀子(すのこ)も、床板も壊れ荒れ果てた館で、鑑賞者に背を向け独り寝する男。これを業平と見ることも、別の誰かと見ることも、また自らを重ねて見ることも許されるところに、歌の醍醐味がある。(鎌倉時代、紙本着色、26.8×412センチ、和泉市久保惣記念美術館蔵)