Source: Nikkei Online, 2023年10月23日 2:00
漆黒の闇の中、雲間からのぞく光に照らされた部分だけが浮かび上がる大海原。簡素な帆掛舟が水平線を航海している。西洋の好みを加味して絢爛(けんらん)豪華な総刺繍(ししゅう)の作品が多い近代の中で、引き算の美学を感じさせる逸品である。
明治の後半、刺繍の近代化の一側面として、対象物に光を一方向から当て、浮かび上がる様を繍(ぬ)う「光線繍い」という技法が開発された。刺繍は制作に時間がかかり大量生産には不向きで、費用対効果でいえば大変効率の悪い技法であったが、新技法では針数を減らすことに成功したのである。またこの引き算の刺繍は、西洋の好みに忖度(そんたく)した結果、さまざまな要素がてんこ盛りの画面を作り上げていた、当時の輸出刺繍の図案に対するアンチテーゼの一つであったとも考えられる。
もちろん針数を抑えたといえども手を抜いているわけではない。よく見なければ分からないが、光に照らされる雲や海原には、黒糸で輪郭線や補助線が効果的に入れられている。人の目に見える見えないに関わらず、必要な針を惜しまず使っているが故に、この作品は光と静寂を感じさせる逸品たりえているといえるだろう。
(明治後期、42.7×66.4センチ、京都府蔵、京都文化博物館管理)