Source: Nikkei Online, 2023年10月11日 2:00
見事な毛並みになんとも言えない感情をたたえる瞳。針と糸でこれだけの表現ができるのかと、作品と対峙するごとに驚きを禁じ得ない最上の動物画の刺繍(ししゅう)である。
刺繍作品としては大変珍しく「加藤針」という繍印(ぬいいん)が付されている本作の作者は、近世の刺繍の名人とうたわれ髙島屋飯田新七の下で制作を担った加藤達之助。
江戸時代の刺繍の名人たちは、明治になると海外を市場として見据える輸出刺繍隆盛のために、新たにさまざまな画題に挑戦することとなった。油彩画タッチの動物画も近代ならではで、その表現にふさわしい刺繍の技法が苦心のすえ編み出されていったのである。
この獅子図の下絵は、髙島屋史料館に所蔵されている「明治年間刺繍参考画集」に綴(と)じられている西洋由来の印刷図版である。その原画をたずねると、20世紀初頭にイギリスのロンドンで活躍していたハンガリー人画家ヴァスリフ・ゲーザの作品であることが分かった。
近代の東西交流の様子を物語るこの獅子図の刺繍は大変人気があったようで、西洋諸国はもちろんトルコのベイレルベイ宮殿の調度の中にも類例を見ることができる。
(明治〜大正時代、60.5×79センチ、清水三年坂美術館蔵)