Source: Nikkei Online, 2023年10月12日 2:00
絹糸の基本単位である十本一組の糸をさらに割った、とても細くて繊細な絹糸で、謡曲「羽衣」を舞う能楽師の姿が見事に繍(ぬ)い表された本作。繊細な冠の瓔珞(ようらく)や、人ならざるものの美しい佇(たたず)まいを宿す能面の表情などが十分に写しとられた、まさに名人による逸品といえるだろう。
本作は三菱財閥の二代目、岩崎弥之助が、自身の能楽の師匠であった梅若万三郎の姿を、京都の刺繍(ししゅう)職人菅原直之助に特注して制作させたものである。岩崎家のコレクションを収蔵する静嘉堂文庫美術館には、他にも同じく弥之助より特注されて直之助が制作した謡曲「翁」と「鞍馬天狗」の刺繍絵画が収蔵されている。
明治から大正期にかけて、輸出刺繍の全盛期においても、近代日本芸術を庇護(ひご)した皇室や政財界の名家には、特注されたとおぼしき最上級の刺繍作品が残されている。
能楽という日本の伝統芸能を画題とし、日本ならではの様式をとりつつも、椅子式の生活空間に適応する額面や腰板付きの四曲屏風で表装される近代の刺繍作品は、生み出された時代の空気を大いに反映しているといえるだろう。
(明治40年頃、191.5×129センチ、静嘉堂文庫美術館蔵)