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料理研究家・土井善晴さん 「おいしい」がつなぐ縁

Nikkei Online, 2023年1月29日 「こころの玉手箱」

どい・よしはる 1957年大阪府生まれ。スイスやフランス、日本での修業を経て料理研究家に。
NHK「きょうの料理」などのテレビ出演で知られる。十文字学園女子大学特別招聘教授、
東京大学先端科学技術研究センター客員研究員。著書に「一汁一菜でよいと至るまで」など。

仏のシェフから頂いたペーパーウエイト

アントナンさんが来日した際にお土産にもらった

1980年、リヨンから車で約1時間、人口1500人ほどのロワイエット村に、私が仕事をしたレストラン・ラ・テラースはありました。私はまだフランス料理、いや料理って何かさえわかっていなかったのです。

こんな何もないところにお客さんは来るのかなと思っていましたが、週末にはちゃんと満席になるのです。お客さんで賑(にぎ)わうと、村の女性が黒いコスチュームに白いエプロンをつけて、嬉々(きき)としてサービスするのです。

秋、狩猟が解禁になると村の男は森に入って、山しぎ(べカス)、つぐみ(グリーブ)や雉(きじ)(フェザン)を散弾銃で打ち、レストランに持ち込んでくるのです。シェフは野鳥の腸を抜きとり、石造りの部屋にぶら下げて熟成を待ち、一週間もするとお尻あたりの匂いをクンクン嗅いで、熟成具合を確かめます。

いい匂いがすれば、さっそく友人に電話で知らせ、調理場全員で、光の入る大きな調理場で車座になって、野鳥を膝に乗せて羽むしり。すると鉄砲の玉がカチンと出てきました。

毎日配達されるミルクを鍋にこし入れ、火入れ、そのままの流れで、搾りたてのミルクがアイスクリームになるのです。レタスを直接畑から取って、内側の柔らかいところをサラダにして、外側の固い葉っぱは白いウサギの餌にしました。ウサギはときどきテリーヌになりました。レストランの隣に教会があって、お昼前になると、神父さんが手提げカゴを持って来るので、サンドイッチなどを入れて渡しました。

休憩時間の調理場はのどかでシェフの子供たちの遊び場になりました。休みの日、黒沢明の「影武者」を見に、シェフの家族とリヨンの映画館に行きました。

オーナーシェフのアントナンさんの生活は、暮らしと仕事の区別がなくて、暮らしの中に仕事がありました。リヨンの市場に行くとき、黒いロングコートに白くて長いストールをかけてとってもおしゃれでした。車を運転しながら「レストランはいつも儲(もう)かるわけじゃない」と言いました。

おいしいものは、その土地の風土と土地に住む動物と家族みたいな友人たちがぜんぶつながるところにあると、今の私なら言いそうなことを、この時体現していたのだと思います。来日した際にお土産にもらったペーパーウエイトを今も大切にしています。

河井寛次郎の器

料理番組で寛次郎の茶碗に黒豆を盛り付けたことも

料理屋で日本一の仕事をしていると自負していた私は、プロの仕事に惹(ひ)かれ、家庭料理の指導者になろうとは思っていなかったのです。だから父、勝の料理学校に戻った当初は「なんで私が家庭料理やねん」と素直に受け入れられませんでした。一生の仕事になる理由を知らなかったのです。

当時私は器の勉強から発展して絵画や彫刻、建築に興味を持ち、美術館、博物館に出かけていました。

料理屋の女将もそうですが、北大路魯山人も厨房で修業をしていないのに、優れた美意識をもって星岡茶寮という日本一の料理屋を営んだのです。最高のフランス料理も、日本料理も詰まるところ、美の問題だと考えていました。料理屋では、乾山、仁清といった懐石の道具を使い、高麗茶碗(ちゃわん)の凄(すご)さを知ったのです。

そんな折、京都五条にある河井寛次郎記念館をふらりと訪ねました。それが民藝(みんげい)との初めてのリアルな出合いでした。魯山人と柳宗悦の美術論の相違は、魯山人を読み、知っていました。河井寛次郎とは、柳や濱田庄司とともに民藝という言葉と概念を作った先覚者です。記念館は、陶芸家であった寛次郎が仕事をし、家族と暮らし、客をもてなした住処でした。

そこは寛次郎自身が設計し、指導して職人に家具を作らせ、仕事がしやすく、住みやすくした、すべてが寛次郎の作品でした。ようするに私は寛次郎の中にすっぽり入って、とても気持ち良い気分になって、その美しさに感激したのです。

そこには、美を追わない仕事、苦しい事は仕事に任せて私は楽しみましょう、といった民藝を象徴する寛次郎の言葉がありました。

それまで美しいものを追いかけていたのです。仕事の後に美が生まれるという思想の正しさは、この館の美しさが証明しているのです。どのくらい時間を過ごしたか、何度訪ねたか忘れましたが、家庭料理とは民藝であると気づいたのです。きちんと仕事すれば料理は美しくなるのだ。そして美しさとは、正しさだと確信しました。ただ仕事をする職人の仕事は、自然と人間の間にあって、自然を受け止める器となり、人の手となり働きます。

奈良・東生駒で選んだ焼き物

季節の食べ物を盛って楽しむ

奈良県の東生駒に「やきものいこま」という一軒家の焼き物屋さんがありました。お店には陶器、磁器、ガラス器、漆器などの鉢皿、茶碗(ちゃわん)、湯呑(ゆの)みやカップが所狭しと。しかも美しく積まれ棚に並んでいました。

大量の器の中には、10年以上前に仕入れた器も昔のままの値段で、思いがけず発見する喜びもあって私には、宝探しのようでもありました。店主の箱崎典子さん(故人)は今風に言えば、レストラン開発のパートナーで、新店舗のためのオリジナルの器を作っていたのです。他にも雑誌やテレビの仕事、どんな器をどう使うかと思いを巡らしながら、いつも器を眺めていたのです。

お店にはちょっといい食器を求めて焼き物好きが足を運びましたが、客がこれと決めたものを、店主はその器を手に取って「この子はええこや」と我が子を思うように、何かしら一言添えて、丁寧に包むのです。その言葉は器の解説ではありません。店主と店主を信頼する客と一つの器の関係から、独り言なのか、何かを伝えていたのです。器を見れば思いが込み上げてくるようで、「〇〇さん元気にしてはるやろか」「これはよう焼けてるな」「滅多(めった)に買うてくれはれへんのに、今日は買いはるんですか」とか色々ありました。私はずっと調理場という箱の中にいたのでそんな細やかな言葉を聞いたことがなかったんですね。

百円のものから百万円もするものまで、器は一緒に並んでいたのです。と言っても玉石混交ではなくて、それぞれ多様な意味において、いい器しかなかったのです。物には、お金の価値では評価できないものの良しあしがあるのです。ここにあるものの全ては箱崎さんが選んだものでした。

展示会に出向けば、彼女が買ったものが注目されました。一流の陶芸家はデパート美術サロン同様に「やきものいこま」で個展がしたかった。若い作家の作品を買うことで仕事の方向を示し大成に導いたのです。

私はいつも器を見ながら、箱崎さんの振る舞いを見て言葉を聞いて時間を過ごし、東京に拠点を移すまでの2年間、この店の側に研究所を置いたのです

味噌造りの名工からもらった箸置き

落葉樹の黒文字(クロモジ)でできている

長野市の市街地の民家に、きれいに手入れされた山野草が並んだ棚があり、春に新芽を出し、夏に花を咲かせていました。春から初夏、山菜採りから戻り、たらの芽、こしあぶら、蕨(わらび)、ぜんまい、蕗(ふき)などを、縁側で整理しながら、山野草を眺めるのは楽しみでした。

この棚の植物の世話をしていたのは、雲田實さん(故人)。新潟の旧三和村で育った彼は、子供の頃から山に親しみ、山で育った人でした。小学校の帰りに松茸(まつたけ)を採って、塩をつけてその場で齧(かじ)ると、ポリポリ小気味良い音がして誰が採ったかすぐにわかったという話をしてくれました。20代から山野草を育てているので、この棚にはもう50年も毎年花を咲かせ、実をつけるものもありました。

彼は植物を枯らしたという記憶はないですなと言うのです。植物を見ていると、どうしてほしいかがわかるという「身体能力」の高い人があるようで、グラフィックデザイナーの田中一光さんも同じことを言っていました。

雲田さんは善光寺にある酒蔵と味噌蔵の工場長でした。酒を造る良い米麹(こうじ)で造った味噌は毎年高い評価を受けていました。麹の仕込みは極めて厳しく、清潔をモットーに、掃除の道具や方法を極め、蒸しの機械のノズルの回し方一つにも、丁寧さを要求したのです。麹を手に取り見つめる穏やかな目は、山野草を眺めるそれと同じでした。

アスペルギルスオリゼ(麹菌)という日本にしかないという菌に興味を持って雲田さんから発酵文化を学びました。なぜものはおいしくなるのか、なぜものはまずくなるのかをいつも考えていた私は、それまで知らなかった彼の美しい言葉を聞き、振る舞いを見て尊敬の念を持ちました。

毎年春、初夏、秋、晩秋と彼とはしょっちゅう山に入りましたが、一言も聞き逃さないように彼の側を離れませんでした。山菜、茸(きのこ)採り、しじみ、じゅんさい、イナゴ採り、野鳥の声と、さまざまな山の恵み、歩き方、山水の飲み方、目のやり方を学んだのです。

山で何もできなかった私が茸を見つけられたとき、自然がやっと自分を認めてくれたと感じました。

「明走会」のTシャツ

走ることで気分は生まれ変わった

昨年の春、34年間続けていたテレビ朝日「おかずのクッキング」が終了しました。父の代から数えると48年の長寿番組でした。その仕事をまっとうするための試作をするのですが、1週間に一度、午前中に材料を仕入れて、午後から考えながら、料理をして盛り付けてレシピを書く。これを翌朝までやるんです。

そんなことをしていたら、どうなるかは明らかで、えらい太ります。太るだけでなく、その頃は人生が大きく変わる時期でもあり、かなりなストレスを抱えていたのです。風邪をひきやすい、歯茎が腫れる、爪が白くなる、不整脈がある、肩が凝る。10年もすれば死ぬんじゃないかと思っていたのです。

近所に新しいスポーツ店ができて、なんの気なしに白いトレパンを買いました。翌朝から、歩き始めて、時間を決めて歩いたら、早く済ませようと少し走るようになって、30分走れるようになると少しずつ距離が伸びていったんです。

そんな時、仕事仲間に一緒に走ろうと勧められて、入ったのが明走会でした。

歩き始めて走り出し、ハーフマラソンのレースに誘われて完走し、走ることが楽しみになって、トレパン購入から1年後には、フルマラソンを完走していたのです。体重は10㌔減、見た目は10歳若返ったと言われ、気になっていた体の不調は全てリセット、生まれ変わった気分でした。走ることが楽しくて一人で各地のレースに出走するようになっていました。

ランニングはダイエットと体力向上だけでなかった。走りながら分かったことですが、私の場合は自己を見つめ、深く考えることにつながって、精神に大きな影響を与えたように思います。マラソンを始めて、10年後、北海道サロマ湖で100㌔のウルトラ・マラソンを完走したのです。

2015年の東京マラソンを最後にしましたが、16年60歳を前に「一汁一菜でよいという提案」を書き上げることができたのも案外ランニングの成果であると思っています。

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