ドローネー「ローマのペスト」(Artothek/アフロ提供)
真白な翼をもつ天使が正義の証(あかし)の長剣を握り、悪魔を従えてローマの町に舞い立った。とある邸の前で天使は悪魔に命じ、扉を叩(たた)かせる、1つ2つ3つ、いや、もっともっと……その数だけ、中にいる人間が死んでゆく。
19世紀フランスの歴史画家ドローネーが描いた衝撃的な「ローマのペスト」は、聖者列伝「黄金伝説」(13世紀刊)をもとにしている。それによれば、中世初期のイタリアでペストが猖獗(しょうけつ)をきわめた時、天使が悪魔をあやつって死者数を決めていた光景を、実際に何人もがその目で見たのだという(本作には建物の屋上にいる目撃者が描き込まれている)。
ペストはヨーロッパの、いわばトラウマだ。6世紀から18世紀にかけて繰り返し、繰り返し、津波のように無慈悲に襲いかかり、屍(しかばね)の山を築いた。その最大のパンデミックは14世紀で、ヨーロッパ人口のおよそ3分の1を減らしたと言われている。
中世から連綿と、はなはだしい数の「死の舞踏」や「メメント・モリ(死を想(おも)え)」の図像が生み出された。そこに表現されたのは、地上の神たる王侯や神に近い聖職者さえも寿命ではなく疫病で、一挙に容赦なく墓場へ導く骸骨姿の「死」であった。堅固な階級社会に慣らされた素朴な民衆は、死の「平等主義」にどんなにか驚かされたことだろう。
ドローネーの絵にもどると、この時代にはもうペストの大規模な流行は収まっていた。だが当時はそれに代わってコレラが蔓延(まんえん)し、フランスでは首相ペリエ、ドイツでは哲学者ヘーゲルが命を落としており、人々はこの疫病がペスト化するのではと心底恐れていたのだった。つまり「ローマのペスト」は、遠い過去の疫病と眼前の疫病の恐怖を重ね合わせた作品なのだ。
またペストやコレラのように急激な死ではないものの、長い潜伏期間を経て多くの人を死に至らしめる慢性感染症に梅毒がある。18世紀イギリスの画家ホガースの版画「ジン横丁」がよく知られている(2017年開催「怖い絵」展にも出品され、意外にも若者に支持された)。
当時のロンドンはイーストエンドが貧民街だった。第2次囲い込みで土地を奪われた農民、各地から流入してきた移民など、その日暮らしの極貧の人々が、生きる希望をなくして安酒ジンに溺れる姿が活写される。
画面中央には、泥酔しながら赤子に授乳する美しくも若くもないヒロイン。我が子を下の舗道へ落としたのも気づかない。この哀れな子持ちの娼婦の足に、はっきり梅毒の腫れものが描き込まれている。
ムンク「病める子」(Bridgeman Images/アフロ提供)
「ジン横丁」の少し後、18世紀後半からが産業革命の時代だ。どこよりも先に革命を推進したイギリスが結核のトップランナーとなる。人口過密と悪化した環境から、ロンドンでは5人に1人が結核で死んだという。やがて工業化が他国へ波及するとともに、結核もまた世界中に広く深く浸透してゆく。
ペストは内出血で皮膚が赤黒くなるので「黒死病」の異名をとったが、それと対比する形で結核は「白いペスト」と呼ばれた。罹患(りかん)初期に肌が抜けるように白くなるためで、結核ほどロマンティシズムや文学と結びついた死病はない。詩人バイロンなどはこう揶揄(やゆ)している――結核で死にたいものだ、ご婦人方に、死の床まで何と素敵(すてき)な方でしょう、と言ってもらえるからな。
ノルウェーの画家ムンクの初期作品「病める子」も結核だ。この絵の悲痛さ、美しさは、結核を我が事とする画家の切ない眼差(まなざ)しから来る。病床の蒼白(あおじろ)い頬(ほお)の少女は、悲しみにくれる介護者をむしろ慰め、慈愛の心で包む。彼女はもう半ばこの世の人ではない。
中野京子氏
ムンクはこのシーンを思い出しながら描いたのだ。15歳で亡くなったムンクの最愛の姉なのだから。付き添うのは叔母。母親はすでにこの10年も前に、同じ結核がもとで亡くなっていた。
コッホが結核菌を発見し、20世紀前半には抗生物質が見つかり、やがてBCGワクチンが接種されるようになって、白いペストの記憶は薄れていった。それでも疫病は姿を変えて襲ってくる。
現在、新型コロナという忌むべき疫病に対し、BCGが有効かもしれないとの研究が始まっているようだ。新薬の開発も進められている。今後、画家たちはこのパンデミックを、どのように描くのだろうか。