「病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる」。夏目漱石のエッセー「思い出す事など」にそんな一節がある。43歳で胃潰瘍となった体験を振り返った記録だ。一人前に働けないし周囲も多くを求めない。健康の時には望めない安らかな心が湧いて出ると記す。
▼現実の闘病は苦しい時間も多かった。そうした中で「こころ」などを執筆し「明暗」を連載中に49歳で生を終える。「四十を越した男、自然に淘汰せられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、忙しい世が、これほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは」。先の随筆では医療関係者ら周囲への感謝をつづっている。
▼人口減の日本で社会保障をどうするか、「国民会議」なる場で議論が始まる。治療や看護が義務と報酬だけで行われるなら身も蓋もない、そこに好意があるから病人は救われると漱石は説いた。そんな牧歌的な視点が入る余地は乏しそうだ。財源論を軸に、職員の確保や機械化によるコスト減などが話題になるのだろうか。
▼主治医から患者・漱石を見れば「新聞連載のような激務はやめ療養に専念を」となろう。しかし漱石は「自分の書くものを毎日日課のようにして読んでくれる読者の好意」にむくいたいと連載を続けた(「彼岸過迄に就て」)。老いや病への姿勢は人生観や哲学にかかわる。人や心の視点も「国民」会議なら期待したいが。