ジョブズ氏の「美しき庭」どこへ 実り多い ITの進化

Nikkei Online, 2021年9月17日 10:00


スティーブ・ジョブズ氏の死去から
10月5日で10年になる=ロイター

数日前、愛用する米アップルの音楽プレーヤー「iPodクラシック」が動かなくなった。機能的にはずいぶん古いが、クリックホイール(丸形ボタン)が特徴的で、アップルの歴史を象徴する物語性もある。手放しがたい。

ソフトの初期化などを試みるが、うまくいかず、都内の直営店アップルストアに持ち込んだ。Tシャツを着たスタッフたちが作業した結果、復活した。状況の説明を受けながらの30分。ストレスを感じない対応だったと思う。

iPodとアップルストア。ともに2001年に登場し、アップルが飛躍する土台を築いた。来月5日で死去から10年となる創業者、スティーブ・ジョブズ前最高経営責任者(CEO)のこだわりがつまっている。

完璧主義のジョブズ氏はあらゆる物事をコントロールしたがった。iPodはハード、ソフトはもちろん、03年に始めた音楽配信サービスとも一体化した。円滑な使い心地は、それまでにないデジタル体験を生み、白いイヤホンをつけた人が世界にあふれた。

つくり込んだ大事な製品の販売を知識が乏しい量販店などに任せられない。そう唱えて始めたのが直営店だ。当時はパソコンを直販する米デルの全盛期。弱小会社が店舗を開くのは無謀と世間は冷ややかだったが、アップルのイメージを発信し集客する場に育った。

揺さぶられる「庭」の壁

製造から販売、サービスまで目を光らせ、独自ルールを敷く手法は「ウォールドガーデン(壁に囲まれた庭)」と呼ばれてきた。


アップルストアの前でiPhoneの発売を待つ
人たち(2007年、パロアルト市)

アップルの閉鎖性をやゆするニュアンスが含まれるが、徹底した管理が製品、サービスの完成度を高めたのは間違いない。01年からの10年でジョブズ氏がヒットを連発した実績からすれば「美しき庭」といっていいだろう。

その後もアップルは主要製品の中枢を担う半導体を自前で開発するなど「庭」の美化を進めてきたが、いま壁を揺さぶられている。08年に開設したアプリ配信のアップストアを巡る問題だ。

情報セキュリティーやプライバシー保護を理由に、アプリ審査など厳格な仕組みでアップルは運営してきた。これに対し、縛りがきつく反競争的だと米エピックゲームズが提訴したのは20年。一審の米地裁は10日、アップルに課金ルールの見直しを命じた。

風圧が強まるなか、アップルは配信手数料の引き下げ、値付けや決済ルールの緩和を相次ぎ打ち出した。だがエピックが判決に反発するなど着地点は見えない。

アップルの催しにジョブズ氏とエピック幹部がそろって登壇したこともあり、かつて両社は親密だった。デジタル市場の拡大で力をつけたエピックなどにとって「庭」は窮屈になっている。

データ奔流、IT大手も苦慮する時代に

ジョブズ氏が世を去って以降、IT(情報技術)の社会的な影響は格段に大きくなった。データが爆発的に増える時代への突入だ。

12年には米フェイスブックがインスタグラムの買収を決め、株式を上場した。個人が絶えず情報を交換するSNS(交流サイト)の普及が加速した。カナダ・トロント大学のジェフリー・ヒントン氏が深層学習を駆使し、画像認識で画期的な成果を出したのもこの年。データで学ぶ人工知能(AI)の進化が勢いづいた。

データの生成・消費のための製品やサービスを供給し、データをてこに競争力を高める――。GAFAをはじめとするIT大手が存在感を膨らませた。

データの奔流のなかで、さまざまな問題が噴き出す。深刻さは米大統領選でフェイクニュースが拡散し、世論に影響したとされる事態だけでも十分わかる。データの制御は難しく、思いがけない混乱が起きるリスクがある。

編み出したテクノロジーへの責任を果たさず、自らの富だけを増やしているのではないか。IT大手に対する、そうした社会の不信、批判が強まった。ITの利用拡大が人々の熱狂に直結するジョブズ時代のシンプルさは消えた。

ユーザーを魅了する製品やサービスをつくろうと思えば、企業とリーダーには独創性や執着が欠かせない。その意味でジョブズ流は力を失っていない。だが同時に透明性、公正さ、オープン、納得感など社会の要請にも応えなければ足りない。関係者に果実が行き渡るITの生態系である必要がある。「庭」より広い概念だ。

新しいモデルを築くのは誰か

フェイスブックのマーク・ザッカーバーグCEOは先週、見た目はサングラスだが、写真や動画を撮影し、SNSで共有できるスマートグラスを発表した。

「全員が写真や動画を撮られるのが好きではないとわきまえる」「医療機関や礼拝の場所などではスイッチを切る」。ユーザー自身や周囲の人を傷つけない使い方をセットで訴えた。なるほどとは思うが「ぜひ使ってみたい」という気分には至らない。

ジョブズ氏はプレゼンの名手だったが、見応えのある舞台もこだわって開発した製品、サービスがあってこそ。強引なやり方で経営者としての資質を問われる場面もあったが、開発への集中力は相当だった。この10年を振り返ったとき、ジョブズ氏をしのぐ熱量を感じたIT経営者の姿、声は思い出せない。

ITと社会の関係は複雑になり、人々の心をとらえる難易度は上がった。だが、だからこそ革新の好機といえる。「美しき庭」を超えるモデルを築くのは誰か。アップルを含め、IT業界の課題だ。