NHK, 2021年11月29日 News Watch 9
研究者で著作家の山口周さんにウィズコロナ・アフターコロナを生きる術、仕事術を聞きました。
◎山口周(やまぐち・しゅう)1970年東京都生まれ 独立研究者、著作家
以前から当たり前だと思っていたことが当たり前じゃなかったということにみんなが気付いたということだと思う。当たり前を疑うことを日常的にやってるのはアーティストと哲学者。普通の人は当たり前を当たり前のものとして、毎日の生活を営んでいる。例えば週に5日会社に行くのが当たり前だとか。コロナ以前の状態では誰も会社にこないで仕事が回るなんて考えられなかったわけだが、実際やってみたら、もちろんいろいろな弊害が起こっていることは確かだが、相当程度これで世の中が実際に回るということはわかった。
当たり前を疑うとか当たり前が当たり前じゃなかったということを知ることは、ある意味では世の中全員が哲学者的な考え方をちょっと身につけた時期ということでもある。日常生活がくるくるくるくる回転し続けなければいけないわけだが、緊急事態宣言が去年4月に出されて生活をストップしてください、立ち止まって考えるということをみんなでやったわけです。立ち止まって考えるっていうのも、普段アーティストとか哲学者がやっていて普通の人はやらないが、この立ち止まって考えた結果として、これまでの来し方とこれからの生き方とか、自分が当たり前だと思ってたことは本当に当たり前なのかと、いろいろ考え始めた結果、よくも悪くもある種のちょっと戸惑いとか揺さぶりみたいなものが世の中に起こっている、そういう状況じゃないか。
もうひとつ決定的だったのが自分の人生にとって何がエッセンシャル(不可欠)なのかをすごいみんな実感もったというのもある。例えば、緊急事態宣言が出てる時は飲食ができないってことになったわけだが、自分にとって例えばなじみのレストランとか、飲み屋さんとかに行けないという制約が与えられた時に、初めてその自由がもたらしていた、自由から享受していた自分にとってのメリットをみんな知った。そうすると自分にとって本当に大事なものは何なのかをみんなが考え始めて、去年はよくエッセンシャルワークということが言われたわけだが、みんなそれなりの仕事はすべてそれぞれの存在意義があって成立してたわけだが、自分にとってなくなると本当に困る仕事に気付いたっていうのもある。
だからちょっと難しい言葉を言えばそれぞれの仕事の報酬とか、社会的な地位は労働市場の中において需給の関係から出来上がるというふうに考えられていたわけだが、必ずしも給料の高い仕事だから世の中にとってどうしても必要な仕事かというと、そうでもないと。一方で給料の低い仕事だが、なくなったらみんなが困る仕事は実はあるんだと気付いた。
それをさらに推し進めて考えてみれば、市場が最適な社会の分配をつかさどるという、経済学者が言ってきたことが、これは本当なのかってことに対する疑いにもつながっていくと思う。2000年代に入ってから資本主義はいろいろなところで限界が来てるっていうふうに言われたわけだが、それは多くの人にとっては実感としてはなかなかつかみ切れないものだったと思うが、コロナによるパンデミックが非常に多くの人たちにとって実感として、これ何かおかしいなと、今世の中が乗っかっているシステムは何か問題点があるなと、実感で感じられたというのはすごく大きな契機だった。
会社に来るのが当たり前だというのが日本固有のものかどうか。これは統計で見てみるとみんなが会社に来なくても生産性がどうなったかというといろんな形で調査されているが、日本は非常に際立った特徴があって、「生産性が下がった」と「リモートワークによって生産性が下がった」と答える人の割合が突出して高い国。これはITインフラが整ってないからとかコンピューターリテラシーが低いからとか、そういう問題じゃない。必ずしもITリテラシーの高い国とか通信ネットワークの充実した国が、生産性が上がったと言ってる人が多いかというとそうでもない。関係がない。
だから私たちの働き方そのものに特徴があった。リーダーシップにかかわる問題だけれども、スコアを見てみるとどうなっているかというと、リーダーが目指すべきゴールをちゃんと示して、実現するためにやってほしいことを明確に伝えている、そういう傾向の強い国ほど、このリモートワークによって生産性が下がったと答える人の比率が低いことが分かっている。逆にいうと、リーダーが行き先をはっきり示さない、メンバー1人1人にやってほしいこと、出してほしい成果もはっきりさせない、そういう傾向がある国ほど、リモートワークの導入によって仕事がやりにくくなったと言っている。今これは経営者の中でもいろいろな議論があって、コロナが落ち着いたら会社に来させる、あるいはこのまま継続する、いろんな議論がある。
ただ会社に来させると言っている方の多くは、「リモートワークによって生産性が下がった、だからオフィスに戻す」と言っているが、そもそもリモートワークで生産性が下がったんだとすると、リーダーシップに何らかの問題があるということ。
具体的に言うと目指すべきゴール、最近の言葉でパーパス(purpose)と世界的に言われているが、パーパスがはっきりしていない、パーパスを実現するための1人1人の役割もはっきりしない、その人たちがモチベーションを感じられるような仕事の意味合いも伝えられていない、そういう状態だからリモートワークによって生産性が下がったとすると、仮にオフィスに来させたとして、根本的な問題の解決になるのかというのは考えなくてはいけない問題。
特にアフターコロナの時代にリーダーに求められる大きな仕事は Whatと Whyと Howを示す。 特に Whatと Whyの 2つが大事。Whatというのは「何を目指すのか」。Whyはそこに意味づけを与える。なぜその目的が大事なのか、これを達成しないといけないのか。フォロワーとの関係でいうと、共感を作るということ。なぜ Whatと Whyが必要なのか。時代の文脈というのはすごく絡んでいる。
日本は明治の1868年かな。大政奉還で明治維新が起こったわけだがそこの時点ではある種の恐怖があった。欧米の諸国に追いつかないと植民地になってしまう、だから産業化を進めて富国強兵を実現しないといけないということで、これは非常に明確な Whatであり Whyも明確。なぜかというと富国強兵という What、ゴールを実現しないと植民地になってしまう。だから Whatも Whyも非常に明確だった。
そこからずっと産業化を進めて、国全体をながめて見てみれば豊かになったわけだが、特に太平洋戦争のあとに関して言うとその Whatは欧米に経済的に追いつこうと。
Whyは非常に明確。豊かになって幸せになろうと。それは高度経済成長をうみだして追いつくべき先は非常に明確だった。それぞれの日本の会社にとって追いかけるべき海外の会社があって、そこにキャッチアップをする、追いかけることで社会みんな幸せになる、経済的に豊かになって幸せになれるという Whyがあったが、これは1990年前後にほぼ追いついた状態になって。ではここから先何を追いかけるかということ。みんな豊かになりました。経済的に豊かであるということが大きなwhyを作らなくなった。経済的に成長しないと植民地になってしまうというのは Whyにならない。
そんな時に Whatと Whyが枯渇する状況が発生した。1990年代に起こったことで、ある意味そこからほぼ30年間、明確な Whatあるいは Whyを示せるリーダーがないまま、ある意味、糸の切れたタコ、風に乗るタコのようにふわふわふわふわ、ずっと漂流するようにここまでやって来たという流れ。ある種大きな曲がり角に来ている時、これまでのやり方ではうまくいかないということははっきりしてきたし、しかもこれまでのやり方にこだわる必要もないことがはっきりしてきた中で、じゃあここから先どこに行くのか、なぜそっちに行くのかを語れるリーダーというのが本当に今求められている。
日本は「石の上にも3年」とか、逃げることをネガティブにとらえる傾向があるけれども、これは今の世の中の閉塞状況を生み出す非常に大きな原因になっている。逃げるというと英語だと escapeってことになるが、これだとサボタージュとか、ネガティブなニュアンスがあるが、私はむしろ exitととらえる方がいいと思っている。Exitととらえると、逃げるっていう言葉の持っている意味合いははるかに膨らみを持つ。
例えば通ってた料理屋があって、おいしくなくなったと。普通通わなくなる。これは exitで、取引関係から exitするというわけ。別のことばで言うと「逃げる」。つまり、あるシステム、世の中で動いているお店とか会社とか、いろいろなシステムがあるわけだが、そのシステムにどんどん修正をしていかないといけないわけ。
時代に合わせて修正をしようというときに修正しなくちゃいけないと気付かせるきっかけは、大きく2つあって、1つは意見を出す。もう1つがそこから逃げちゃう。ステークホルダーは、会社とか組織っていうシステムに対して、オピニオンとエグジットを出すことでシステムのパフォーマンスを上げることができるが、従業員も実は同じ。会社の経営がまずければ従業員の立場で意見を上げることができるし、場合によっては逃げることができる。その権利を多くの人が使うと何が起こるかというと、よくない会社から人がどんどん出ていって、その会社は労働市場でよい人を採用できなくなって難しい状況になっていくわけですね。
一方で、従業員の声をよく聞いて、システムをどんどん変えていくことができている会社のところには声を積極的にあげる人というある意味希少な人材がいる。そういう人はなかなかいないわけで、問題意識を持つからこそ、もっとよくできると思うからこそ声を上げるわけで、そういった人たちが声を上げることができ、人たちを取り込めればシステムを改善できる。だから最後に逃げるというのは経営者に対して非常に大きな気付きを与えるきっかけになる。次々に人がやめていくと、さすがにどんな鈍い経営者でも、何が起こっているんだということになる。
「ニュータイプ」、「オールドタイプ」を書くきっかけになったのは、2018年くらいだったと思うが、それなりに年齢がいって成熟してるはずだっていうような方による、こどもじみた不祥事っていうのが連発した。例えば駅で駅員さんに乱暴する中年男性とか、航空会社でも機内でむちゃなこと言ってお酒を飲んで暴れるのはだいたい中年男性だと。あと日大アメフト部の監督の指示を受けてとか。当時の年齢でいうと50代から60代ぐらいの、社会的にそれなりに成熟した手本になる、模範を示すべき年齢になっているような人が、非常にチャイルディッシュな(こどもじみた)振る舞いをして、失笑を買うということが起こっていて。
そのときに何を僕が思ったかというと、これは昭和のルサンチマンだなと。昭和的な価値観を振りかざして昭和的な振る舞いをする人をオールドタイプ。そうじゃない、令和的、21世紀的な価値観にアップデートさせて振る舞う人をニュータイプ。恐らく、そこのアップデートができない人は企業もリーダーもこの先、非常に難しくなっていく。逆に21世紀、令和的な思考様式にアップデートできた人は、これから先、社会において中心的な役割を果たしていくだろうと。そういう思いで書いた。
昭和というのは例えば長時間労働が是とされて、上意下達の組織運営がよしとされ、物質的な繁栄とか経済的な豊かさが何よりも優先される、そういう時代だった。だから、そういうことをまさに実践してる人が社会に出てリーダーとされたし、それを実践してできる人が優秀な人と言われた。今は上意下達で人を引っ張ることができなくなって、共感できるゴールを示す、Whatを示す、あるいは仕事の意味合いがちゃんと語れる、Whyが語れるかどうかということになっている。これはやっぱり一番、具体的な局面で言うと会社組織の中で出てきている。自分は権限を持ったポジションにいる。だからつべこべ言わずにおれの言うことをやれと。
よく私も企業の研修とか経営者の集まりで、Whatと Whyを示して「共感させないといけない」と言うが、「仕事なんだから共感なんて必要なのか」「会社に来て給料を払っている以上は、それを上司に言われたことをやるのが仕事であって、なぜ彼らに共感させなくちゃいけないのか」と、平気で聞いて来る経営者もいる。
恐らくこれまでもそういう経営をやってきていると思うんですけど、「御社の時価総額ってどうなってますか?」というと、だいたい上がってない。上がってないとすると何らかやり方がおかしいはずで、変えてみる、じゃあどう変えてみるかと考えてみると、「こういう角度もひとつの変え方の角度だと思いますよ」って話。
典型的にどういう場で出てきているか、具体的なシチュエーションは…。一番よく出てるのは、中期経営計画とか事業計画だと思う。日本の会社って相変わらず中期経営計画性っていう昭和の標準化された、本当に日本の特殊なやり方で、じゃあ何が書かれてるかっていうと数字目標しか書いてない。売上高いくら、利益がいくら、海老鯛でいくら、海外売上高比率いくら、全部乾いた数字で書いてあるわけ。「何のために」がない。何をするかもない。ただ単に数字の目標が下りてきて、つべこべ言わずにやれというだけ。これが一番典型的なオールドタイプの組織運営。それがニュータイプでどう変わるかというとその問題の大きさが可視化される。例えば、非常にビジブルに問題を語る。
目的が売上高や利益というのが典型的なオールドタイプの組織で、これ何でこんなことやらなくちゃいけないですかっていうと、理由は語れない。その理由は、「これが達成できたら俺は株主総会で褒められる」「俺の退職金が増えるだろう」 「俺が社長から褒められるだろう」。これが理由なんです。その理由に共感できないということを皆さん分かっているから、「そうはいっても仕事だから、競争に生き残るためにこれをやるしかないんだ」というんだが、それは下の人間から見たらその裏側には欺瞞としての Whyがあるんだとすぐ見透かされちゃってるわけ。
ニュータイプの組織は売上高とか利益とか企業価値の向上は結果の関数ととらえるという特徴がある。世の中にこういう問題がある。これを解決してこういう状態を実現したい。そのためにこういうことをやってみよう。結果として売上高はこれぐらい上がるかもしれない。利益はこれくらい出るかも。話の順序が逆になる。目的が利益なのか、売上が目的なのか。結果が目的なのか、このとらえ方がニュータイプとオールドタイプの組織で違う。
本当に、人間性のコアになる部分で、世代間にそんなに大きな違いがあるかといったらそうじゃない。これは教育の結果だと思っていて、自分が生きた環境において何か希少だったか。その社会において育った環境の中で何が希少だったかを考えると人々の価値観がみえる。ベビーブーマーの人にとっては物質が足りない、あるいは人がたくさんいるんでポジションが足りない、ってことは競争に勝たなくちゃいけない。
その社会、生きた時代において何が希少だったかっていうのは彼らのキャラクターを作っている。ただ逆に言うと人間性のコアになる部分は人間そんなに変わらないので、ベビーブーマーの人たち、あるいはその下のジェネレーションXの人たちも、本当に自分にとって大切なものが何かってことを突き詰めて考えると、物質だったり金銭だったり社会的な地位だったりよりは愛する人とのつながりだったり、自分が心地いいと思える環境に身を置くことだったりとか、本当に自分が意味があると思える営みに身をささげているということだと気づくと思う。
ジェネレーションX、あるいはベビーブーマーの中にもこういうニュータイプのような物の考え方をして、実際にそういう生きざまを生きてる方もたくさんいる。そういう方を見てると何が違うのかというと、自分にとって大事なものが何かを突き詰めて考えて気付いたってこと。
40歳以上はオールドで40歳以下はニュータイプという、年齢で乱暴に分ける考え方がある。これはもう全く誤解しないでくださいっていう話です。経済的な成功や物質的な豊かさ、社会的な地位を追い求め、世の中で成功者といわれる記号をどんどん手に入れていくことが大事という価値観を持って生きている人がオールドタイプ。
その価値観から自由になれた人は、これは世代を問わずにニュータイプ。つまりニュータイプとして生きる上でのカギは自分にとって本当に大事なものは何かをつかめるかどうかにかかってるんじゃないか。
自分にとって何が大事なものを見きわめて、自分にとって大事なものを追求していく、自分のコードに従って生きるってことで、これは言葉をかえて言うと、わがままな人ってこと。わがままな人を増やさないといけない。個性と言うとみんな賛成するのに、わがままな人っていうとみんな「ウッ」てなる。そこが非常に大きな問題で、個性のある人ってわがままなんです。
学校教育でわがままな人材をどう育てるかが非常に大きな課題になってくると思うし、足並みをそろえて動くっていうことを強制させるようなシステムって日本はたくさんある。 例えば新卒一括採用という異様な仕組みで社会人を採用しているのは日本だけなわけで、1~2年、世界を放浪して世の中よく見てから、どんな職業を自分がやりたいのかよく考えて就職したいと言うと、そこでペナルティー、ハンデを負うわけ。
あるいは会社に入って、私は職業はできればもう5つか6つぐらい体験してから最終的に自分が何やるか決めたほうがいいと強く思っているが、日本の労働市場だと転職を 4回、5回も 20代の時にやってるって言うと、非常にこれまたハンディを負うことになる。社会全体がわがままさを圧殺するようなシステムに動いているので、ここを何とかしていかないと、難しいなと思います。
これは don’t disturbがキーワードだと思う。余計なことをしないでくれ。カラヤンという20世紀を代表する指揮者がいて、何度も繰り返し言っていたのが ”don’t disturb”で、オーケストラの団員は非常に多様性があって、それぞれのモチベーションを持った情熱をもった演奏家たち。当たり前だけどいい演奏したいと思ってる。いい演奏したいって思いを衝動をまさに引き出せばいいだけであって、指揮者は自分が思ってるいい演奏に無理やり当てはめてコントロールしようとするなと言った。それは ”don’t disturb”というカラヤンの言葉。彼は最終的に80歳をこえてもベルリンフィルの指揮を続け、それが老害にならずにベルリンフィルの団員から指揮をし続けてほしいといわれた。なぜカラヤンがオールドタイプにならずに若い層からも尊敬されるリーダーであり続けたのかというと。私はこの”don’t disturb”、彼らの衝動を邪魔しない、そういうリーダーであり続けたからかな。むしろそれをどんどん引き出すっていう役割をやったわけ。
ニュータイプとオールドタイプ、どっちが増えていくかということで、多くの局面でコ
ロナはニュータイプを増やしていく要因になったが、ひとつ大きな要因というかブレーキ要因になったのが、文化関連の仕事、広い意味で文化にかかわる仕事にストップがかかったこと。本の中で、「役に立つ」から「意味がある」へというシフトとして語っているが、「機能的で便利なもの」をつくっていく。これは昭和の日本が得意なことで、大きな経済的価値を生み出したが、多くの領域で「これ以上機能的なものは必要ありません」「これ以上便利なものは必要ありません」と。
一方でむしろ、不便なものを求めている。たとえばエアコンがあるにも関わらず家を建てるなら薪ストーブとか暖炉を入れたい。スマートフォンにカメラがあるにも関わらず、マニュアルフォーカスで写真を撮るようなオールドタイプのカメラが欲しい。機能的で便利なものから、不便だけど情緒がある、不便だけどロマンがある、そういうものに価値がシフトしていることがずっと起こっていた、ここ5年。
そういう「機能」から「情緒」、「便利さ」から「ロマン」、「役に立つ」から「意味がある」ということだが、別の言葉でいうと、文明的な価値から文化的な価値へのシフトととらえることもできる。安全で快適で便利な生活を作っていく。これはもちろん重要な仕事だが、これがかかなり高い水準でできあがった段階で、次に何が価値を生むかというと文化的な価値。
これは人生に意味を与える、豊かにしてくれる、人の人生を豊かにしてくれるもので、芸術だったり文化だったり、その中には食事も入ってくる。旅も入ってくる。音楽のパフォーマンスとか演劇とかも入ってくる。この文化にかかわる領域というのは重要なエッセンスがあって、人の対面を多くの場合に伴う。料理を楽しむ、旅に行く、芸術パフォーマンスを味わう、すべて対人関係を必須的に伴うが、これがコロナによって禁止された。
しかも、私は決してそうは思わないが、文明的な価値に対して文化的な価値が不要不急ということで、活動そのものが収縮させられた。そういう意味ではニュータイプが文化的な価値を推し進めていくと考えると、コロナによって大きなブレーキがかかったといえる。あと諸外国との間で、政府の取り組みに非常に大きな温度差が出た領域でもある。
コロナ対策でいうと、ワクチンの問題とか外出禁止は等しくどこの国でも行われたが、ヨーロッパ、イギリス、フランスは芸術家の支援にいちはやく動いて、彼らがなんとか活動を継続できる、あるいは活動を停止しても健全な練習とか生活を維持できるような支援に乗り出したが、そこは非常に大きな温度差が出た。日本の全体としてみた時にも「役に立つ」というところが多くの領域で成長が難しくなっているときに、インバウンドに代表されるような文化的な価値の提供、旅行、旅、食事、あるいは芸術、文化。そういったものがこの先抑え込まれると、回復ができないようなダメージを受けてしまう可能性があるので、そこは懸念している。
-- ありがとうございました。
聞き手は経済部・古市啓一朗記者、ニュースウオッチ9・中江文人ディレクター