Nikkei Online, 2021年8月15日 0:00
今年も終戦の日が巡ってきた。先の大戦で戦火に倒れた国内外の多くの犠牲者に哀悼の意を表し、平和への誓いを新たにしたい。
日本人のうち、戦前・戦中生まれは全人口の7人に1人にまで減った。戦争を経験した旧軍人は1万人を割り込んでいる。往事の記憶は遠ざかる一方である。
国際情勢をみると、米国と中国の覇権争いが激しさを増し、「戦後」が終わる日が来ないとも限らない。そういうときだからこそ、あの戦争をきちんと振り返り、再び世界を惨禍に陥れない道筋を探ることが重要である。
昭和の日本は1931年の満州事変以降、戦争続きだった。なかでも敗北への歩みを決定づけたのが米ハワイの真珠湾への奇襲という決断である。今年はそれから80年の節目に当たる。なぜ米英との戦争へと突き進んだのか、立ち止まることはできなかったのか、を考えてみたい。
当時の日本の国力が米国にはるかに及ばないことは、戦争指導者たちもよく認識していた。国内総生産(GDP)の実質的な差は、計算方法によってやや異なるが、12倍程度あったとされる。しかも日本が必要とする石油や鉄といった戦略物資のほとんどを米国からの輸入に依存していた。
政府はエリート官僚、軍人、民間有識者らを集めて総力戦研究所を設け、開戦直前に米英戦のシミュレーションを実施した。「敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」との結論に達し、その報告は近衛文麿首相や東条英機陸相にも届けられた(猪瀬直樹著「昭和16年夏の敗戦」)。
にもかかわらず、戦争回避との判断に至らなかった。加藤陽子著「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」によれば、直後の御前会議で、海軍の永野修身軍令部総長は、開戦に消極的な昭和天皇をこう説得したという。
「大坂冬の陣のごとき平和を得て、翌年の夏には手も足も出ぬような(中略)事態に立到(たちいた)らしめることは皇国百年の大計のため執るべきにあらず」
海軍が危惧していたのは、石油の備蓄が尽き、戦わずして米国の軍門に下ることだった。必敗を知りつつ、開戦させたのは、ひとえに組織のメンツゆえである。
この考え方は、戦争末期の戦艦大和の沖縄特攻でもあらわれた。吉田満著「戦艦大和ノ最期」などによれば、出撃に反対する将校は少なくなかった。海軍の上層部は「大和が生き残ったままで戦争に敗(ま)けたとしたら、それが帝国海軍の栄光になるのか」と押し切った。
戦後のいっとき陸軍悪玉・海軍善玉論が広がった背景に、大和の玉砕があったのは事実だろう。だが、海軍が姿を消したいま、それを栄光と呼ぶのは、あまりにもむなしい。
組織の体裁を優先し、不都合な現実から目を背ける。日本人が抱いてきたこうした体質は、いまの社会のゆがみにも相通じるものがあるのではなかろうか。
米英戦突入の責任は海軍だけにあるのではない。無謀な戦いに国民を引きずり込んだ東条首相ら戦争指導者に、開戦後の講和プランが全くなかったわけではない。
軍事同盟を結んだドイツが破竹の勝利を続け、フランスに次いで英国も降伏する。厭戦(えんせん)気分に陥った米国が融和姿勢に転じる、というものだ。
こうした楽観を後押ししたのが、世論である。開戦前年、月刊誌「文芸春秋」が読者アンケートで、米国との外交交渉について聞いたところ、「強硬に出る」が431票で6割を占めた。大衆は強硬論を後押ししがちだ。
戦争に勝つには、銃後の大衆を鼓舞することが欠かせないが、世論の過熱が政治決断を難しくすることはよくある。ほぼ引き分けだった日露戦争を大勝利と誤解した大衆は講和反対の日比谷焼き打ち事件を起こした。その教訓が生かされなかった。
軍部とともに大衆を戦争へと導く一翼を担ったのが、当時の新聞である。あおればあおるほど部数が増えたこともあり、言論人の多くが戦争支持へと回った。
冒頭で触れた現下の国際情勢を考えれば、防衛力の増強といった現実判断は必要である。しかし、それと世論を戦争へと駆り立てることは別次元の話だ。
ネットの発達などで、ポピュリズムが勢いづきやすい時代を迎えている。だからこそ、メディアは一歩引いて冷静な視点を提供する役割を担いたい。
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