日本アイ・ビー・エムの名誉相談役で経済同友会の副代表幹事も務めた椎名武雄(しいな・たけお)氏が19日、病気のため死去した。93歳だった。告別式は近親者で行った。お別れの会を行うが日取りなどは未定。
岐阜県出身。慶応義塾大学を卒業後、米バックネル大学を経て1953年に日本IBM入社。オンラインの新聞製作システムを世界に先駆けて実用化し、大手製鉄業の生産管理システムの開発にも携わった。
75年に45歳の若さで社長に就任した。93年に会長となり、日本における外資系企業の地位向上にも努めた。
19日に死去した日本アイ・ビー・エム名誉相談役の椎名武雄氏は日本における外資系企業のイメージ向上に情熱を傾け、財界活動にも積極的に取り組んだ。富士ゼロックスの小林陽太郎氏などとともに外資系財界人の草分けとなった。
米国留学時にIBM本社を訪ねたことがきっかけで帰国後に日本IBMに入社した。45歳の若さで社長に就任し、「セルIBM・イン・ジャパン、セル・ジャパン・インIBM」を掲げてIBMの中で日本事業の存在感を高めることを目指した。日本IBMは1987年に1兆円の売上高を達成し、89年には米IBMの副社長に抜てきされた。
米国の東海岸にあるIBM本社は、西海岸のアップルやヒューレット・パッカードに比べて堅苦しいというイメージがあった。だが六本木にあった日本IBM本社は風通しがよく、雰囲気も明るかった。気さくな椎名氏のキャラクターが少なからず投影されていた。
93年に社長を北城恪太郎氏に譲った後は、日本IBMの会長兼最高顧問を務めながら、経団連や経済同友会などの対外活動に力を注いだ。
ソニー創業者の盛田昭夫氏が経団連の国際化を進めるために作った国際企業委員会で88年に小林氏に続いて2代目の委員長に就いた。外資系企業と日本企業の間の敷居をなくしたいと願い、「私の役目はこの委員会を消滅させることだ」と語った。
外資系企業の日本化と同時に、日本企業の国際化にも心を砕いていた。複数の企業で社外取締役を歴任し、経営諮問委員を長年務めたダイキン工業では海外工場を全て視察して改善点を指摘するなど、グローバル展開を裏から支えた。日本を国際的に整合性を持った形に変えたいとの思いから、規制緩和についても積極的に提言した。行政改革委員会の規制緩和小委員会では座長として報告書をまとめた。
70年にはIBMの研修施設に経営者や政治家、官僚、文化人などを年1回集めて泊まりがけで幅広い社会課題を議論する「天城会議」を発案。今でも続いている。キッコーマンの茂木友三郎名誉会長は「日本の現状や将来を議論したことは、日本社会において大きな貢献として残った」と悼んだ。