「稼げるコメ作り」の芽は60年前に摘まれた
 農地改革の先を描けず

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Nikkei Online, 2025年11月17日 10:00

農地改革を国民に宣伝するために作られた当時の紙芝居=国立公文書館所蔵

現代の暮らしは戦後社会と地続きにある。終戦からの流転と不変を探る「そして続く戦後1945→2025」の第4部は「食」をテーマに80年の曲折をたどる。

静岡市郊外にある農地の一区画は、子どもの背丈ほどの雑草が黄色い花を咲かせていた。「もとは多くが田んぼだったが、しばらく手つかずの状態。近隣農家がまとめて耕作できるよう調整を進めている」。市農地利用課の渡辺貴行が地図を見ながら説明する。

約10人の地権者がいる計0.7ヘクタールの土地の大部分は利用されなくなって久しい。市は農家への貸借や売買を今夏から後押しする。一帯は取り組みの初事例になる見通しだが、市にはなお5千ヘクタールを超える未利用・低利用の農地が残る。

静岡市が集約を進めている農地の一区画(10月30日、静岡市)

日本の農業は小規模農家が支えてきた。農林水産省によると、販売目的の水稲の作付面積が1ヘクタール未満の農家は2024年に約33万9千戸あり、全体の6割を占める。担い手の7割は65歳以上で、全国で3割の農地は10年後の担い手がいないという。

広大な農地を使い、効率的に生産する大規模農業へ転換する必要性はかねて指摘されてきた。しかし多くの地域で細かく分かれた土地権利が壁になる。狭い日本の農地。源流をたどると戦後の「農地改革」に行き着く。

何故に農民は貧なりや――。農政学に通じ、農商務省(当時)にも勤めた民俗学者の柳田国男は「郷土生活の研究法」(1935年)でこう問うた。戦前の農村は地主階級の支配下にあり、高額な小作料が農民の暮らしを圧迫した。

迎えた終戦。食糧不足は深刻で、農家の耕作意欲を高めなければ国民が飢える。45年10月、農相に就いた松村謙三は「土地の問題は自作農を広くつくっていくことである」と宣言した。地主に土地の譲渡を勧奨する第1次農地改革の骨格をまとめた。

松村らの提案には地主出身の議員らが抵抗し、農地改革の法案審議は暗礁に乗り上げた。強く推し進めさせたのがGHQ(連合国軍総司令部)だ。45年12月、「日本農民を奴隷化してきた経済的束縛を打破する」とする覚書を発表した。

GHQは「民主主義的傾向の復活」をかかげ、地主が所有できる土地面積を政府案より厳しく制限した。GHQの意向を受け、政府が地主から土地を買い取り小作農に安く売却する第2次農地改革関連法が46年10月に成立した。

農地改革を記念するポスター=国立公文書館所蔵

米国側の思惑について、小作農の不満が共産主義と結びつくことを懸念したという見方がある。GHQ農業顧問だったウォルフ・ラデジンスキーは「自作農創設を成就した日本農村は、ほとんど共産主義の浸透を許さぬ金城湯池と化した」と後に述懐した。

農地改革が進められ、戦前に5割を占めた小作地は50年に10%に減った。狙い通りにコメは増産され、55年の収穫量は1207万トンと45年から倍増する。

食糧難は逃れたが、農業は「稼げる仕事」にはならなかった。55年から高度経済成長期に入ると、高収入を求め農村部から都市部への人口流出が加速した。コメの収穫量は67年をピークに減少に転じる。

農政に詳しい宮城大学名誉教授の大泉一貫は「小作農の解放を目的とするあまり、それを果たした後にどうするかという発想を根本的に欠いていた」とみる。生産性の低い零細農地は新たな足かせになった。「農地改革の呪い」。大泉はそう言い表す。

変えられる機会はあった。65年に農林省が提出した「農地管理事業団法案」。公的機関が農地をまとめ、自立経営を志す農家に与える制度をめざす内容だ。当時の農相、赤城宗徳は国会で「生産性の高い農業経営の基礎を確立しうる」と強調した。

しかし同法案は2年続けて審議未了に終わり廃案となる。野党を中心に「中小農家の切り捨て」といった懸念が上がり、与党も積極姿勢を欠いた。コメは60年代後半に余り始め、政府は価格下落から農家を守るため70年代に減反政策へかじを切る。

「あの時に法案が通っていたら、日本の農地の景色は今とは全く異なっていたはずだ」。2016〜18年に農水次官を務めた奥原正明は惜しむ。

奥原らはこの法案を土台として、農地中間管理機構(農地バンク)が大規模農家などへの農地の集積・集約を進める新たな仕組みを編み出す。農地バンクの始動は14年。持ち主をたどれない土地も既に多く、半世紀の足踏みは容易には取り戻せない。

奥原は戦後の農政について「『強い農業を育てる』という視点を持つことができず、守りの政策が続いた」と話す。農地を十分に活用できないという宿痾(しゅくあ)は、24年産のコメが店頭から消えた「令和の米騒動」の遠因になったともみる。

百笑市場の倉庫には輸出される日本米が置かれていた(10月16日、茨城県下妻市)

攻めに転じた担い手もいる。茨城県下妻市のコメ卸「百笑市場」の倉庫には、米国や中東への出荷を待つコメ袋が山積みだ。地元の大規模農家が中心となり設立した同社は16年の米国を皮切りに、24年産は30カ国超に計約3千トンを輸出した。

社長の長谷川有朋は「人口が減る国内だけで戦うのは限界がくる」と語り、海外を飛び回り販路を開いてきた。今の輸出は国の補助金に支えられている。将来的にも海外で勝負できるか、付加価値と生産効率を上げる策を練り続ける。

令和の米騒動は農業のあり方が広く議論されるきっかけになった。長谷川は「それだけでも大きな一歩」という。農家の高齢化は進み、気候変動のリスクも高まる。眠れる農地は日本中にあるが、議論できる時間は長くない。

=敬称略

(嶋崎雄太)

日本の稲作、縄文時代後・晩期から

現代のコメは大きく3つの品種に分けられる。日本で主に食べられているジャポニカ米は粘りや弾力が強い。米カリフォルニア産「カルローズ」はジャポニカ米の一種で、日本米と比べて粒が長く軽い食感が特徴とされる。

粒が長く粘りが少ないインディカ米はタイやインドなどが主な産地で、世界の生産量の8割を占める。このほかにアジアの熱帯高地などで生産されるジャバニカ米がある。

農林水産省によると、日本では縄文時代後・晩期には水田稲作が行われていた可能性が高いことが近年の研究で明らかになっている。弥生時代以降に本格化し、日本各地に急速に広がっていったとされる。

日本は山地が多く、耕地面積の4割は中山間地域にある。平地と比べると効率的な農業には不利だが、ドローンや人工知能(AI)を含め新たな技術を生かした農業の模索が続いている。


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