Source: Nikkei Online, 2025年1月22日 11:00
米大リーグ、マリナーズなどで活躍したイチローさんがアジア人初の米野球殿堂入りを果たした。マリアノ・リベラに続く史上2人目の満票には届かなかったが、資格取得1年目で99.7%という高い得票率は功績の大きさを物語る。芸が細やかで正確。そんな日本人の気質を体現した打者だった。
イチローさんが海を渡った2001年頃のメジャーはパワー全盛の時代だった。同年はバリー・ボンズが歴代最多の73本塁打を記録。1998年にはマーク・マグワイア(70本)とサミー・ソーサ(66本)のタイトル争いが熱を帯び、ファンも豪快さを求めた。行き着く先が3人の大砲の薬物使用疑惑だったわけだが、日本からやってきた細身のヒットメーカーのスタイルはそうした打撃の潮流と一線を画していた。
日本人野手初のメジャー挑戦には懐疑的な見方があった。イチローさん自身、2019年の引退記者会見で「米国のファンは最初厳しかった。01年のキャンプでは『日本に帰れ』としょっちゅう言われた」と語っている。それを覆すことがエネルギーになったといえ、実際、認められるまでにそう時間はかからなかった。
スタンドに運ぶ技術を持ちながら、地道に単打を重ねていった。1年目の242安打はメジャーの新人最多記録。首位打者を獲得したほか新人王と最優秀選手にも輝き、安打の価値が再評価された。「レーザービーム」と称された返球に代表される外野守備や509盗塁をマークした走塁での貢献も大きく、オリックスやマリナーズで同僚だった長谷川滋利さんは「パワー野球の中で彼の存在は逆に新しく映ったのではないか」と指摘する。
イチローさんは野球の魅力について「団体競技だけど個人競技というところ」と話している。団体スポーツはチームの勝利がすべてともいえるが、個人でも結果を残さないと勝負の世界では生きていけない。その厳しさが面白いのだと。
クリーンな一本も、あえて詰まらせる芸当でもぎ取った一本も、生きていくために必要だった。04年以降、マリナーズは低迷期に入ったが、同年にジョージ・シスラーのシーズン最多安打(257安打)を84年ぶりに塗り替える262安打をマークし、シーズン200安打以上を10年続けた。最終的にメジャー通算3089安打という高い山を築く過程で、歴史の中に埋もれていた記録を掘り起こした意味は大きい。
長谷川さんによれば、一緒に食事をした際、「数字と戦うとしんどい」と話すことがあったという。記録を追いかければ自分を見失いかねない。そこに打席での心構えや重圧の一端がうかがい知れる。
自身が認めるように、孤独を感じる時期もあった。だが、ヤンキースやマーリンズに移籍して控えに回っても妥協のない鍛錬を自らに課し、ルーティンを崩すことなく準備を続けた。そのひたむきな姿は広く尊敬を集め、周囲に多大な影響を与えた。
マーリンズへ移籍した15年、メジャーは映像解析システムを導入し、以後、データ重視の野球へと流れて現在に至る。飛球を打ち上げて一発を狙う「フライボール革命」が起こり、打者の評価でOPS(出塁率と長打率の合計)が重視されるようになったこともあり、イチローさんのように小技や巧みな技術で生きる打者は評価されにくい時代になっているかもしれない。
外野手の前に打球を落とす、守備位置を見て針の穴を通すように内野の間を抜く――。手先まで感覚を研ぎ澄ませ、打撃を突き詰めていった過程は、繊細な手仕事で様々な伝統文化を紡いできた日本人の歩みそのものともいえる。
本来、野球は力の限りに振って飛ばせばいい、と単純化できる競技ではない。イチローさんが「頭を使わなくてもできてしまう野球になっているような……」と警鐘を鳴らしてきたのは、鋭敏な感性と技術で勝負してきた職人だからこそだろう。
昨季まで3年連続首位打者のルイス・アラエス(パドレス)はイチローさんの後継といえるが、バットコントロールとコンタクト能力を武器にこつこつ安打を重ねる選手は少なくなりつつある。そんな中、資格取得1年目でアジア人として初の米殿堂入りを果たした事実は、「イチロースタイル」がパワー野球に劣らぬ価値を有していたことを改めて浮き彫りにした。
(渡辺岳史)