シビックハッカー(市民技術者)の象徴的人物といえば、台湾の天才IT大臣、オードリー・タンさん(39)の名があがる。 日本では新型コロナウイルス禍におけるマスク在庫情報サイトの活用などで知られるが、タンさんの真価はITスキルだけにあるのではない。 テックの明日と民主主義の未来――。 それらを一つの思想として思い描き、社会に具現化しようとしている点にある。
「みんなが善意を持てば世界は魔法のように良い場所になる――。私もそんなことを無邪気に信じているわけではない」。10月17日、オンラインで開かれたシビックテックのイベント「コード・フォー・ジャパン・サミット2020」の冒頭で、タンさんは日本のシビックハッカーたちにこう語りかけた。
「それでも、デジタルスペースには好意の『足跡』を残すことができる。人々がネット上で貢献を続けることで、好意は分散型台帳のように消えない形で記録され、社会に信頼が蓄積されていく」
タンさんは日本のシビックハッカーとも交流を重ねている。
19年3月の来日時には、デジタル時代における台湾発の合意形成プロセスや制度設計についてワークショップを開いた。
タンさん(前列左から3人目)とコード・フォー・ジャパン代表理事の関治之さん(同4人目)
タンさんの経歴は天才といわれるのにふさわしい。1981年、台北市で生まれ、生後8カ月で言葉を話し始めた。その後、知能指数は測定限界を超えた。
14歳でプログラミングの腕を見込まれて台湾IT大手にスカウトされ、中学を中退。15歳で起業し、19歳でシリコンバレーに渡った。
20歳のときにプログラミング言語の開発でIT界に貢献し、世界的に名を知られるように。 次世代言語とみられていた「Perl6」のプログラムを動かすためのプログラム「Pugs」を開発し、Perl6の実用に道を開いた。 その後、米アップルに請われて顧問に就いた。
タンさんは閣僚の仕事をしながら、シビックハッカーの草の根の活動も続けている(7月2日、台北市内)
すでにビジネスから引退していた2014年、台湾の「ひまわり学生運動」で大きな足跡を残す。 中国とのサービス貿易協定に抗議して立法院を占拠した学生たちの映像を配信するシステムを構築し、社会の共感を広げた。 そして35歳で蔡英文政権から史上最年少の行政院の政務委員(閣僚)に登用された。
コロナ禍で台湾の評価を高めた施策の一つに、マスク在庫情報サイトの存在がある。 市民はマスクの購入を制限されたが、常に正確な在庫情報を把握できたため、他国でみられたようなパニック買いに走らなかった。
全国の薬局のマスク在庫状況がわかる地図サイトの1つ。
緑の三角で記された薬局は大人用も子供用も在庫がある。
台北駅から1番近い薬局をクリックしたところ、左側に詳細情報がポップアップし、
大人用が1818、子供用は1380の在庫があることがわかった(11月19日午前11時時点)
その仕組みと背景を分析すると、タンさんの思想がみえてくる。
まず経緯を振り返る。台湾でも1月末にはマスク不足が問題になりつつあり、台湾当局は2月上旬から「実名制」「枚数」などの購入制限を設けた。懸念したのは「購入できないかもしれない」との心配が反発や社会不安につながること。そこでタンさんは保険当局と協力し、薬局のマスク在庫データをほぼリアルタイムで公開することにした。
当局が在庫データを集める仕組みは、もともとあった特定の処方箋薬用の処方システムを応用した。台湾の保険証にはICチップが付いており、薬剤師に負担をかけずマスクの処方記録をリアルタイムで把握することができた。
すると、民間側でも動きが起きた。政府の公開したデータを使い、多数の企業やシビックハッカーが在庫情報をわかりやすく知らせるアプリやシステムを次々と開発して公開したのだ。
当局は「マスク在庫情報プラットフォーム」というサイトで、民間が開発したサイトやアプリのなかでも使いやすいものを並べて紹介した。それぞれには「by kiang」「by 陳柏宇 (Mowd)」「by 究心公益科技」など開発者の名も記した。
台湾当局のサイト「マスク在庫情報プラットフォーム」
ここで重要なのは、こうした仕組みや展開が危機下で急に可能となったものではない点だ。背景には、タンさんや台湾のシビックハッカーたちが時間をかけて構築してきた「デジタル民主主義」の確固たる土壌がある。
第1に、当局があらゆる行政情報を加工可能なデータとして公開する「オープンデータ」が徹底されていた。今回でいえば、当局が集めたマスクの在庫情報は加工しやすいようCSV形式で公開された。当初は30分ごとだったが、すぐに30秒ごとに修正されたという。
台湾当局が公開するマスク在庫情報。
薬局や医療機関の名称・住所・電話番号・大人用のマスク数・子供用のマスク数が並ぶ(11月19日午後3時時点)
今でこそオープンデータに熱心な台湾当局だが、昔から情報公開に前向きだったわけではない。変化は14年の「ひまわり学生運動」を契機に訪れた。当時の馬英九政権が中国とのサービス貿易協定を強行採決したことから、抗議する多数の学生が立法院の本会議場に突入し、23日間占拠する事態となった。状況は緊迫したが、展開は暴力的なものにはならなかった。学生と政治家は、オンラインで参加したNGO関係者らも交えて徹底的に議論を重ねた。学生側は要望書を作成し、最後は議場を明けわたした。
14年3月の「ひまわり学生運動」で行政院を占拠した学生たち(ロイター)
台湾にとって運命的だったのは、この間の議論の状況が「g0v(ガブゼロ)」というサイトを通じてすべてライブ中継されたことだ。配信システムはタンさんが構築し、提供した。
g0vは12年、行政の情報を可視化する目的で設立されたシビックテックのサイトで、タンさんも開発に携わった。今も台湾のシビックテックの中心的存在となっている。
学生と政治家たちの白熱した議論――。 その様子をすべて目撃したことを機に、台湾内の空気が変わった。市民の間で政治への関心と「オープンな政府」を求める機運が劇的に高まったのだ。
変化の証しはその年の統一地方選に如実に表れた。「どの政党に属するかかかわらず『開放政府(オープンガバメント)』を支持した市長候補は勝ち、支持しなかった候補は落選した」(タンさん)。その後もシビックハッカーたちは当局に様々なデータの公開を要求し続け、公開されたデータはg0vを通じてわかりやすく市民に届けられた。当局はいや応なくオープンデータの推進にカジを切り、それが今回のマスク在庫の逐次公開にもつながった。
第2に注目すべきは「自分たちが必要とする行政サービスは自分たちでつくる」というシビックテックカルチャーがすでに一つの社会機能として定着していた点だ。
「薬局のマスクの入手情報をリアルタイムで掲載した1週間のうちには様々な団体が100以上のアプリを開発し、チャットボットや音声アシスタント、マップやアナリティクスなどあらゆるツールを通じて情報を広めた」。タンさんはこう説明する。
「g0v」上にはマスク在庫情報に関するサイトやアプリが次々とアップされた。
「地図」「LINE」「チャットボット」「音声支援」など様々なツールがある
今でもg0v上にはマスク在庫に関するアプリやシステムがずらりと並ぶ。11月19日時点で、60の地図アプリ、21のラインアプリ、24のモバイルアプリ、22の情報提供サービス、8つのチャットボットや音声支援など計141のツールが掲載されている。
シビックテックや市民参加の行政にとって「オープンデータ」は必要不可欠のインフラであり、活動の前提となる。
タンさんの政治的信条のひとつが「Radical Transparency(徹底的な透明性)」。外交や防衛など秘匿性の高い情報は別として、あらゆる行政情報がネット上で公開されることで、市民は初めて課題を認識し、行政と対等の議論ができる。
g0v上にある財政の可視化システムはその信条を形にしたものだ。様々な部局の予算はカラフルなボールとして描かれ、全体の予算に占める規模が視覚的にわかる。一つのボールにカーソルを合わせると、左側に15年間の推移を表す棒グラフが出る。
「g0v」上にある財政の可視化システム
たとえば、画面のように少し目立つピンク色のボールにカーソルを合わせると、左側のグラフで退役軍人関連の予算と表示され「意外と大きな規模なんだな」と実感できる。14年からはじまった項目であることもわかる。
政策別、部署別と表示を切り替えると、ボールが美しく散らばり、見ていて飽きない。予算の状況を感覚的に把握しながら、政治や行政のあり方を考える材料となる。
デジタル時代の民主主義のインフラ――。タンさんはこうした基盤をベースとして、今度はネット上における市民参加の疑似議会ともいうべき「vTaiwan」を立ち上げた。法改正に先立ち、行政と市民、専門家が議論して意見を集約する。改正案の草案もつくって立法院に送る。これまでに酒類のオンライン販売や「Uber」「Airbnb」の国内参入などで国内の議論を収集し、法改正につなげた。
タンさんが生まれた1981年、台湾はまだ戒厳令下にあった。初めて直接選挙による総統選が実施されたのは96年、タンさんが15歳の時だ。
「私にとって民主主義は『テクノロジー』だった」。コード・フォー・ジャパンの関治之代表理事との対談でタンさんはこう語った。民主主義は当たり前の日常として自然にあるものではない。だからこそテック同様、オープンソースの力で日々改善し、アップデートしていくことに違和感はない。
台湾の行政院にあるタンさんの執務室。
VR機器も完備しており、タンさんはこの部屋から国際会議に参加する(7月2日、台北市)
中国におけるデジタル権威主義の高まりや米欧社会の混乱を背景に、インターネットは次第に「社会を分断し、民主主義を破壊する存在」として扱われるようになった。だが、本来、ネットはオープンかつフラットな状態で存在しているだけだ。ネットの世界を「個人が暴力的に振る舞うアナーキーな場」として放置せず、タンさんが語るように「人々の好意を記録し、信頼を蓄積する場」として設計すれば、民主主義を支えるツールとなる。そしてオープンデータとシビックテックが連携すれば、ネットは「国家が市民を監視するツール」ではなく「市民が国家を監視するツール」にも変わる。
シビックテックは日本でも本当に社会を変える力となれるのだろうか。
哲学や宗教にも精通するタンさんは、仏教の説話を使って日本のシビックハッカーに呼びかけた。「一灯千年の闇を破る」
タンさんが「ひまわり学生運動」で仕掛けたライブ中継は、まさに台湾の闇を破る一灯となった。これから国を挙げて行政のデジタル化に乗り出す日本――。いったいどんな灯をともすことができるのだろうか。
(桃井裕理、伊原健作)