Source: Nikkei Online, 2025年1月11日 5:00
「韓国の権力核心部にはこちらの人間が入っている」。およそ30年前、韓国に亡命した北朝鮮最高幹部の一言が韓国社会を震撼(しんかん)させた。
中国滞在中に北京の韓国大使館に駆け込んだ朝鮮労働党の黄長燁(ファン・ジャンヨプ)書記が、韓国情報機関の国家安全企画部にスパイ網の存在を証言した。当時の韓国メディアは黄氏が「ソウルには5万人の北朝鮮のスパイがいる」と語ったとも報じた。
黄氏は故金日成主席の「主体思想」をまとめ、国会に相当する最高人民会議の議長を務めた人物。その5年前の1992年には韓国内で北朝鮮の女性諜報(ちょうほう)員が築いた大規模な地下組織が発覚し、60人あまりが逮捕される事件が世間をにぎわせていた。
このため黄氏の発言は真実味をもって受け止められたものの、ファクトなのか陰謀論にすぎないのかは検証されないまま人々の記憶にとどまることになった。
2024年12月、突然の非常戒厳を宣言した尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領がその記憶をよみがえらせた。
国会の多数を占める数の力で政権の足を引っ張る野党を念頭に「従北反国家勢力」と言及し、談話で韓国が「スパイ天国」になってしまうと訴えた。与党が大敗した24年4月の総選挙についても北朝鮮のハッキングで操作されていた疑いがあると提起した。
不正を立証できるほどの材料はなく、保守系の政治団体やユーチューバーの陰謀めいた主張に乗ってしまったとの見方がある。
政権初期に北朝鮮工作員と接触した労働組合の幹部を摘発するなど、尹氏がスパイの排除に並々ならぬ執念を持っていたのは間違いない。
そもそも韓国政治と「スパイ」には根の深い関わりがある。過去の軍事政権は民主化運動と北朝鮮を結びつけた。
前大統領の暗殺で混乱下にあった1980年、軍を掌握した全斗煥(チョン・ドゥファン)氏は非常戒厳を全国に広げるクーデターを起こした。「北朝鮮による扇動」を口実に武力でデモを鎮圧し、当局はスパイ捜査の名目で学生や野党指導者を拷問にかけた。
革新系の政治勢力はその時代の記憶を逆手にとり、軍事政権の流れをくむ保守勢力の正統性に疑問を投げかける。互いの過激な主張がSNSで飛び交い、国内の分断を助長している。
北朝鮮指導部には今回の韓国政治の混乱の予兆をつかんでいた節がある。
北朝鮮の朝鮮中央通信は非常戒厳の2週間前の11月19日、日米韓3カ国を非難する論評のなかで尹氏をめぐる情勢に言及し「弾劾の危機に陥っている」と指摘していた。
北朝鮮は日米韓の安全保障協力を最大の軍事的脅威と見なす。それゆえ日本と韓国が対立を乗り越えて連携を深めた半面、北朝鮮はロシアに近づいて軍事同盟を結び、ウクライナ戦線に大規模な部隊を派遣するに至った。
北朝鮮が見込んだとおり敵対勢力の一角である韓国の政治は機能不全に近い状況に陥った。日本との安保協力に慎重な政権に代わってくれれば彼らには都合がいい。
北朝鮮がその次に期待するのは、日本と米国の間につけ入る隙が生まれることだろう。トランプ次期米大統領と再び直接交渉し、制裁の緩和や在韓米軍の縮小を実現したいはずだ。
石破茂首相は2月以降にワシントンでトランプ氏と初めて会談する日程を描く。ウマが合うかどうかは会ってみないと分からない。東アジアの地域秩序の流動化を望む北朝鮮などを落胆させるようなトランプ・石破会談にしてもらいたい。
(恩地洋介)