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ゴッホ 新イメージ

芸術思想史家 木下長宏

Nikkei Online, 2020年6月25日

(7)「星月夜」

発作は治ったと思ったら、また襲う。ゴッホは、みずから申し出て、サン・レミの施療院に入院した。鉄格子の窓の生活が始まる。

窓越しに見る南仏の夜空。「夜は昼よりもずっと色彩豊かだ。星空を描くためには、濃紺に白い点を置いただけではだめなんだ」と、アルルにいた時、妹ウィルに書き送った。その豊かさを求めて、暗い夜空に蠢(うごめ)く月と星の光跡を描き込んだのが「星月夜」である。

その前景、真ん中に、小さく教会の尖塔(せんとう)を描き入れ、手前に大きく迫る糸杉を据えた。教会の尖塔は何度も絵にしてきたが、今回の尖塔は、大きな糸杉に遠ざけられている。断念した牧師になる夢を葬るように。これ以降、彼は教会の尖塔を描くことはない。翌年オーヴェルで描いた教会に尖塔はない。あれは、建物の絵なのだ。

糸杉が尖塔の代(かわ)りとなる。枝が身をよじって天へ伸び、葉は厚く濃い緑色を練り上げる。

テオに「星空の新しい研究を始めた」と書く。深い闇に沈む家々を見守り、山や樹や麦畑に寄り添う大きな糸杉を、サン・レミでの1年、ゴッホは描き続け、病気の回復への祈りも、そこに預けた。

(1889年、油彩、73.7×92.1センチ、ニューヨーク近代美術館蔵)