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(4)囲碁AIが独創の定義変える 大橋拓文が身を投じた革命

 Source: Nikkei Online, 2020/10/29 2:00更新

東京・市ケ谷の日本棋院では毎月2~3回、金曜午後に気鋭の若手棋士らがパソコンを片手に集まる。「その手はダメみたい。(勝率が)30%に下がっちゃったよ」「違う布石なら大丈夫なんじゃない? AQZにも探索させてみようか」

AI研究会ではいくつものAIを使って最善手を探る

いくつもの人工知能(AI)の評価値を突き合わせながら、最近自分たちの打った対局の良しあしを議論する。芝野虎丸らトップ棋士も顔を出す「AI研究会」だ。中心にいる36歳、六段の大橋拓文(ひろふみ)は、AIがまだプロ棋士にかなわなかった約10年前からその可能性を信じ、開発者ともかかわってきた。

■ 人間がコンピューターに負けた瞬間

AIがまだプロ棋士にかなわかったころから開発にかかわってきた

2016年3月の囲碁AI「アルファ碁」の登場を大橋はこう振り返る。「いつか人間がAIに負ける瞬間がくることは覚悟していたつもりだったけど、言葉がでなかった。幕末の日本人が黒船を見たときの衝撃って、こんな感じだったのかもしれないですよね」

英ディープマインド社の論文で存在が明るみになったばかりのアルファ碁が、世界トップクラスの韓国九段イ・セドルを4勝1敗で破ったのだ。アルファ碁はさらに改善され、翌年5月に世界最強とされた中国九段、柯潔(か・けつ)に3連勝した。前評判からして人間側は絶望的で、柯が対局途中で席を外して嗚咽(おえつ)をもらすほどの悲痛な負け方だった。

アルファ碁はディープラーニング(深層学習)という技術を用い、プロ棋士の対局データを大量に読み込んで人間を上回る棋力を備えた。その後開発された「アルファ碁ゼロ」はさらに棋士のプライドを傷つけた。人間の棋譜を使わず、ゼロからAI同士で対戦するだけで強くなったのだ。人間が積み重ねてきた、英知と信じていたはずのものは無価値だったのか。

韓国のイ・セドルを破ったアルファ碁は囲碁界に
衝撃を与えた(2016年3月、グーグル提供)

一部始終をつぶさに見た大橋もまた「これからの棋士人生をどうしようかと真剣に悩んだ」。しかしその後に巻き起こったのは、中国IT大手テンセントをはじめとする各国の覇権争いだった。AIに造詣の深い大橋は引っ張りだこで、国産囲碁AIプロジェクトの舞台裏には必ずといっていいほど大橋の姿がある。

大橋がAIにかかわるきっかけは2010年、約4分の1サイズの9路盤という小型碁盤で、フランスの囲碁プログラムに敗れたのがきっかけだ。「強くなったと聞いて半信半疑でやってみた。これでもプロの端くれ。近い将来、これは来るなと思った」

当時、プロ8年目で四段だった大橋は悩んでいた。同期入段組で5歳も年下の井山裕太は名人のタイトルを獲得し、世間の注目を浴びていた。ほかの同期も段位がどんどん上がっていく。「置いてけぼり感がすごかった。そんなときに東日本大震災が起こった。いつ何が起こるか分からないなら、面白そうなことを本気でやったほうがいい」

囲碁AIの大会があると聞けば足を運び、開発者と意見を交わした。大橋はわりと人当たりが柔らかく、面倒見もいい。アドバイスを求められるようになり、技術面にも詳しくなった。

国産AIで世界一を目指すプロジェクトにも参加した
(2019年4月、左端が大橋)


■ 常識が次々と塗り替わる

人間を上回るAIが誕生して囲碁界は一変した。プロ棋士らは強くなろうとAIの打つ手を貪るように研究し、これまでのセオリーは見向きもされなくなった。「ダイレクト三々」など新たな定石が生まれて常識が塗り替わっている。「アルファ碁以前」と「以後」で違うゲームになったと漏らす棋士もいる。

大橋はAIの限界も見抜いている。「開発にかかわって分かったのは、AIは道具であって人間の要求をこなしているにすぎないということだ。AIは正解ではないし、その答えはAIの作り方次第で変わる。ただプレーヤーとしては悩みが深い。AIの流行が人間の流行になる。人間の価値はどうなるのか」

これまでも人間はより強い人間の手をまねてきた。それでは井山の手をまねるのと、AIをまねるのと本質的に何が違うのか。「これからは独創性の定義が変わってくるだろう。評価値は落ちないけれども誰も見つけていないという独創性のみが通用するようになる。まっさらな紙に絵を描くのではなくて、ふるいにかけられた独創性が求められる」と大橋は言う。

世界の囲碁AIの開発者が腕を競ってきた
(2016年3月、UEC杯コンピュータ囲碁大会)

今では、プロが打つ手は一手一手、AIによって評価値が示される厳しい時代になった。その値はわずか1目の違いで10~30ポイントも変わることがある。勝率90%以上の局面でさえ、少しのミスでひっくり返ることもある。

■ もろ刃の剣、使いこなせるか

人間をはるかに上回ったAIは、もろ刃の剣でもある。1月、韓国のプロ試験でAIを不正使用した20代前半の受験生がいることが発覚した。韓国棋院は事件を受け、不正を行えば受験資格を5年間剥奪するなどの罰則を強化している。日本もひとごとではない。アマ大会のネット対局でAIを参考にしながら打った事例が見つかっている。

韓国は8月、コロナ禍でネット対局となったアマ世界大会でAI不正防止に乗り出した。マウスを持つ手と顔を常時、スマホで撮影し、映像をチェックした。この大会に参加したアマ国内トップ級の会社員、大関稔は断言する。「きちんとしたAI対策を取っていないネット大会には出場しないことにしている。相手を疑う余地があると対局にならない」

こうした課題は、おそらく囲碁だけに起こることではないだろう。大橋は言う。「次世代の天才を守るため、つまり卓越した能力を発揮した人が不正を疑われないようにするためにも、コストをかけてきちんとしたチェック体制を作ることが不可欠になるはずだ」

=敬称略、つづく

(山川公生)