江戸時代 |
1603 |
徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。 |
1605 |
家康が、将軍職を秀忠にゆずる。 |
1609 |
オランダの商館を平戸(長崎県)におき、オランダと貿易を始める。 |
1612 |
徳川幕府が直轄領に禁教令を出す。 |
1613 |
伊達政宗が支倉常長をヨーロッパに派遣する。 |
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徳川幕府が禁教令を全国に広げる。 |
1614 |
大阪冬の陣
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1615 |
大阪夏の陣
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徳川幕府が武家諸法度・禁中並公家諸法度を定める。 |
1616 |
ヨーロッパ船の来航を平戸と長崎に制限する。 |
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家康が死去。 |
1621 |
このころ、シャム、インドシナ、ルソンなどに日本人町が栄える。 |
1624 |
スペイン船の来航を禁止する。 |
1625 |
関所・駅伝の制を定める。 |
1629 |
幕府がキリスト教徒の発見に踏み絵を用いる。 |
1635 |
日本人の海外渡航を禁じ、御朱印船を廃止する。 |
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大名の参勤交代が制度化される。
- 3代将軍家光のとき。大名は1年おきに江戸と領地を往復。妻子はつねに江戸に居住。
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1637 |
島原の乱
- 肥前(長崎県)の島原半島と肥後(熊本県)の天草地方に起こった農民一揆。幕府のキリシタン弾圧と領主のきびしい政治に対し、益田四郎時貞(天草四郎)を首領として一揆を起こした。
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五人組の制をきびしくする。 |
1639 |
ポルトガル船の来航を禁止する。→鎖国の完成。 |
1641 |
オランダ人を長崎の出島に移す。 |
1644 |
宗門改めの制を定める。 |
1649 |
慶安の御触書が出される。→農民の取りしまり |
1651 |
慶安の変
- 由井正雪を首謀者とする浪人たちがくわだてた幕府批判の反乱未遂事件。
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1670 |
箱根用水がつくられる。 |
1671 |
河村瑞賢が東回り航路をひらく。 |
1672 |
河村瑞賢が西回り航路をひらく。 |
1680 |
綱吉が5代将軍となる。 |
1681 |
このころ、井原西鶴、松尾芭蕉らが活躍する。 |
1687 |
生類憐みの令が出される。 |
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このころ、元禄文化がさかん。 |
1689 |
松尾芭蕉が「奥の細道」を著す。 |
1690 |
聖堂を湯島に移し、昌平坂学問所を付設する。 |
1702 |
赤穂浪士があだ討ちをする。 |
1703 |
近松門左衛門が「曽根崎心中」を著す。 |
1709 |
新井白石の改革(正徳の治)
- 綱吉の死後、学者の新井白石が6代将軍家宣、7代将軍家継につかえて財政の立て直しを図ったが、効果はうすかった。
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1716 |
吉宗が8代将軍となる。→享保の改革 |
1717 |
大岡忠相が江戸町奉行に就任する。 |
1720 |
江戸町火消しをつくる。 |
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キリスト教以外の洋書の輸入を許す。 |
1721 |
目安箱を置いて人々の不満をきく。 |
1722 |
上げ米の制をもうけ、参勤交代をゆるめる。
- 上げ米の制 大名の江戸滞在を半年(それまでは1年)とするかわりに、石高1万石につき100石の割合で米をさし出させるようにした制度。
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1723 |
足高の制を定め、人材を登用する。 |
1727 |
青木昆陽がさつまいもの栽培を始める。 |
1732 |
享保の大飢饉 |
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このころ、各地に百姓一揆や打ちこわしが起こる。 |
1742 |
公事方御定書を出し、裁判の基準を定める。 |
1751 |
吉宗が死去。 |
1767 |
田沼意次が側用人になる。 |
1774 |
杉田玄白・前野良沢らが「解体新書」を著す。
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1776 |
平賀源内がエレキテル(発電機)をつくる。 |
1779 |
このころ田沼父子が権力をふるう(田沼時代)。 |
1783 |
天明の大飢饉がおこる。 |
1786 |
最上徳内が千島・樺太を探検する。 |
1787 |
松平定信が老中筆頭になる。 →寛政の改革 |
1790 |
朱子学以外の学問を禁止する(寛政異学の禁)。 |
1792 |
林子平が「海国兵談」を著し、罰せられる。 |
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ロシアの使節ラックスマンが根室に来る。 |
1798 |
本居宣長が「古事記伝」を著す。 |
1802 |
十返舎一九が「東海道中膝栗毛」初編を著す。 |
1808 |
間宮林蔵が樺太を探検する。 |
1821 |
伊能忠敬による「大日本沿海輿地全図」が完成。 |
1823 |
シーボルトが鳴滝塾を開く。 |
1825 |
幕府が外国船打払い令を出す。 |
1828 |
シーボルト事件 |
1832 |
葛飾北斎の「富嶽三十六景」ができる。 |
1833 |
天保の大飢饉 |
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歌川広重の「東海道五十三次」ができる。 |
1837 |
大塩平八郎の乱
- 大阪で陽明学者で大阪奉行所の元役人の大塩平八郎が、貧しい人々を救おうとして奉行所に申し入れたが聞き入れられず、兵をあげた。乱は1日でしずめられたが、大阪は直轄地であり、また元役人であったことから、幕府は大きなショックを受けた。
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1839 |
蛮社の獄
- 渡辺崋山・高野長英らが幕府の鎖国政策を批判してとらえられる。
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1841 |
天保の改革
- 老中水野忠邦による。株仲間をつくることを禁止したり、人返しの法などによって都市に出ていた農民を村に帰させたり、、倹約令を出してぜいたくを取りしまったが、失敗に終わった。
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滝沢馬琴が「南総里見八犬伝」を著す。 |
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このころ各地にマニュファクチャー(工場制手工業)が起こる。 |
1853 |
アメリカの使節ペリーが来航し、浦賀で開国を要求する。
- アメリカのペリーが軍艦4隻をひきいて浦賀(神奈川県)に入港し、開国を求めた。幕府は翌年に返事をすると約束し、朝廷に報告するとともに大名にも意見を求めたがまとまらず、開国か鎖国かで国内はゆれ動いた。
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1854 |
ペリーが再び来航し、日米和親条約(神奈川条約)を結ぶ。
- 下田・函館の2港を開いて、アメリカ船に食料や燃料を与える約束をした。
- ついで、ロシア・イギリス・オランダとも和親条約を結んだ。→鎖国の終了
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1856 |
アメリカの総領事ハリスが下田に着任する。 |
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吉田松陰が松下村塾を開く。 |
1858 |
井伊直弼が大老になり、アメリカ・ロシア・イギリス・フランスと修好通商条約を結ぶ。
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1859 |
安政の大獄
- 大老井伊直弼は、朝廷の許しを得ずに通商条約を結び、それを批判した諸大名や数多くの志士(吉田松陰・橋本左内など)をとらえて死刑や島流しにした。
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1862 |
孝明天皇の妹・和宮が将軍家持と結婚し、公武合体運動がすすめられる。
- 公武合体の動きに対して、薩摩藩と長州藩では尊王攘夷論がますます強まった。
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生麦事件
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1863 |
薩英戦争
- 生麦事件への報復として、イギリスが鹿児島湾を砲撃する。
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1864 |
長州藩士が京都御所を襲う(蛤御門の変)。 |
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下関事件
- アメリカ、イギリスなど4か国の艦船が下関を砲撃、占領する。
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長州征伐(第一次) |
1865 |
長州征伐(第二次)
- 幕府は、尊王攘夷論の中心であった長州藩をたおそうと2度にわたって出兵し、1度目は降伏させたが2度目は失敗に終わった。
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物価が上がり、各地で打ちこわしが起こる。 |
1866 |
薩摩藩と長州藩が連合する(薩長連合)。
- 土佐藩出身の坂本竜馬のなかだちで、薩摩藩代表の西郷隆盛・大久保利通、長州藩の木戸孝允らがひそかに軍事同盟を結び、岩倉具視ら京都の公家らも加わり、幕府をたおす計画を進めた。
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1866 |
家持が死去し、徳川慶喜が第15代将軍となる。 |
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福沢諭吉が「西洋事情」を著す。 |
1867 |
大政奉還
- 前土佐藩主の山内豊信は、坂本竜馬らの意見をとり入れ、15代将軍徳川慶喜に政権を朝廷に返すようすすめた。慶喜はこれを受け入れ、大政奉還を申し出た。これによって約260年続いた江戸幕府はたおれ、鎌倉幕府が開かれてから700年近く続いた武家政治は終わりをつげた。
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1867 |
王政復古の大号令 |
1868 |
五箇条の御誓文が発せられる。
- 新政府の政治の方針。天皇が神に誓うというかたちで発表された。
同時に民衆に対し、五榜の掲示。
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1868 |
江戸城開城。 |
1868 |
戊辰戦争
- 西郷隆盛と幕府の勝海舟との話し合いによって、江戸は戦火から守られたが、徳川慶喜に対する朝廷の処置に不満をもった旧幕府側の大名や武士たちは、薩長を中心とする新政府と対立し、各地で反抗した。鳥羽・伏見の戦いから函館五稜郭の戦いで抵抗したが、新政府軍に敗れた。この一連の戦いを戊辰戦争という。
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